コロナの猛威はとどまるところを知らないようで、ついに大相撲春場所は、観客無しで行われるという前例のない事態に...
オープン戦はともかく、プロ野球の本チャンは果たして開幕されるのか?
肺炎とかインフルとかは普通、春の本格的な訪れとともにピークは去ってゆくものですが、どうなんでしょう?
早くこの世界的規模のコロナの日食が抜けることを祈るばかりです。
(これから、書くことは私の単なる思い込み、妄想だと思って読まれても構わないのですけど...)
私はもしかして昨年の11月、このコロナ肺炎の流行に先駆けて、苦しみの体験をさせられたようにも感じています。
勿論私の場合かかったのは、肺炎の疑いが強い重い風邪だったというだけで、直接それとの関連性は低いのですが...ただその症状はとても似たものがあるのです。
ごく身体面のことを言えば、ただ長きに渡る発熱、呼吸器系統のつまりなどに伴う苦しみを背負っただけのことです。
私が先のように感じたのは、そのことに伴って、いつもここで書いているような、"パッと意識が向いたら、じんじんと言葉を超えた現臨に包まれる..."、"何か全てを見透かすような光の照射を受けている"、といったような感覚を失ってしまったからです。
それは、そういう時の"き~ん"というジェット気流みたいな耳鳴りが聞こえなくなり、低周波を思わす"ぶ~ん"という重く、鈍い感じのものに変わったことで端的に示されたのでした。
私は毎日毎日、寝床でうめき、そして祈らされていました。"ああ、通らない、つまっている、開かれない...ああ、早く通らせて下さい、開いて下さい..."と。
これは喉、胸の閉塞のことでもあるのですが、もっともっとそれ以上に身体面を超えたある閉塞感についてのものだったのです。
それが何かということは名言出来ないのですが、とにかく、それが通り、開かれることで、"パッ"となる性質のあるもののことです。
というのもそれに与ることで、心身両面に癒しがもたらされることを過去に何度も経験されていることだったからです。
いいや、私が本当にそのことを実感したのは、その病苦を背負ったからだ、と言ってもいいでしょう。これを思うと、もう有り難く、勿体なく随喜の涙が...
私はこの時のことを頭がフラフラになりながらもブログに綴っていました。色々訳の分からんことを...
どうしても書かなきゃならない、と妙な使命感を持って...
この苦しい風穴が開けられ、愛の息吹が通る瞬間を書き表わさねばならないと...
そうです。これは"通るようになる、開かれるようになる"ことを前提にしていたのです。そんなん、あったり前でしょうがi
あれが失ったように感じているのは私の表層部分で、もっと自覚されない奥の部分では"つながっている"のは自明のことなのです。ただ開通は長かったi
私が何でこういう過程のことを書きとめる必要を感じていたのか? "愛が通ること"は、ここの物好きな(?)読者のみならず、みんなにとって必要なことだと感じていたからですi
どうしてそう感じるのかというと、愛の息吹が通ると普遍的なものに意識が開かれるからです。
一寸前に、"コロナへの特効薬は愛"、だなんて抽象的なことを書いちゃいましたが、私は具体的にこういうことも感じていたのです。
それはそのことだけの問題ではありませんが、この世界的規模の日食は、今人類がもっとも大切なものに目覚める切っ掛けとなるのではないでしょうか?
で、そのめでたく開通した時の克明な模様のことは私は書いてないのですが...
ある朝、起きたら耳がき~んとしてて、寝てる間に開通工事が終了したのか、覚えてません i (抜けたあi)
オープン戦はともかく、プロ野球の本チャンは果たして開幕されるのか?
肺炎とかインフルとかは普通、春の本格的な訪れとともにピークは去ってゆくものですが、どうなんでしょう?
早くこの世界的規模のコロナの日食が抜けることを祈るばかりです。
(これから、書くことは私の単なる思い込み、妄想だと思って読まれても構わないのですけど...)
私はもしかして昨年の11月、このコロナ肺炎の流行に先駆けて、苦しみの体験をさせられたようにも感じています。
勿論私の場合かかったのは、肺炎の疑いが強い重い風邪だったというだけで、直接それとの関連性は低いのですが...ただその症状はとても似たものがあるのです。
ごく身体面のことを言えば、ただ長きに渡る発熱、呼吸器系統のつまりなどに伴う苦しみを背負っただけのことです。
私が先のように感じたのは、そのことに伴って、いつもここで書いているような、"パッと意識が向いたら、じんじんと言葉を超えた現臨に包まれる..."、"何か全てを見透かすような光の照射を受けている"、といったような感覚を失ってしまったからです。
それは、そういう時の"き~ん"というジェット気流みたいな耳鳴りが聞こえなくなり、低周波を思わす"ぶ~ん"という重く、鈍い感じのものに変わったことで端的に示されたのでした。
私は毎日毎日、寝床でうめき、そして祈らされていました。"ああ、通らない、つまっている、開かれない...ああ、早く通らせて下さい、開いて下さい..."と。
これは喉、胸の閉塞のことでもあるのですが、もっともっとそれ以上に身体面を超えたある閉塞感についてのものだったのです。
それが何かということは名言出来ないのですが、とにかく、それが通り、開かれることで、"パッ"となる性質のあるもののことです。
というのもそれに与ることで、心身両面に癒しがもたらされることを過去に何度も経験されていることだったからです。
いいや、私が本当にそのことを実感したのは、その病苦を背負ったからだ、と言ってもいいでしょう。これを思うと、もう有り難く、勿体なく随喜の涙が...
私はこの時のことを頭がフラフラになりながらもブログに綴っていました。色々訳の分からんことを...
どうしても書かなきゃならない、と妙な使命感を持って...
この苦しい風穴が開けられ、愛の息吹が通る瞬間を書き表わさねばならないと...
そうです。これは"通るようになる、開かれるようになる"ことを前提にしていたのです。そんなん、あったり前でしょうがi
あれが失ったように感じているのは私の表層部分で、もっと自覚されない奥の部分では"つながっている"のは自明のことなのです。ただ開通は長かったi
私が何でこういう過程のことを書きとめる必要を感じていたのか? "愛が通ること"は、ここの物好きな(?)読者のみならず、みんなにとって必要なことだと感じていたからですi
どうしてそう感じるのかというと、愛の息吹が通ると普遍的なものに意識が開かれるからです。
一寸前に、"コロナへの特効薬は愛"、だなんて抽象的なことを書いちゃいましたが、私は具体的にこういうことも感じていたのです。
それはそのことだけの問題ではありませんが、この世界的規模の日食は、今人類がもっとも大切なものに目覚める切っ掛けとなるのではないでしょうか?
で、そのめでたく開通した時の克明な模様のことは私は書いてないのですが...
ある朝、起きたら耳がき~んとしてて、寝てる間に開通工事が終了したのか、覚えてません i (抜けたあi)