人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

恩寵を受け入れる

2020-03-23 12:10:42 | 覚醒
一口に精神的覚醒とかエンライトメントの体験と言っても様々な様態があります。
まあ、そんな体験も無い、と身もフタもない観方もあるようですが...
例えば、所謂法悦状態というか、心身が揺すぶられ、爆発的な感情の解放のような状態を伴うものもありますが、これを"それはまだ本当に目覚めた境地ではない"、とする観方もあるようです。
もっと進むとそういう状態は後退して、より意識は明晰になって深く浸透してゆくようになるとか...
こう書くと、誰しもがそういう道程を歩むものかと思うかもしれませんが、一様ではないでしょう。
その法悦状態というもの自体も一様ではないと思われます。
よくそれを又忘我状態などと言ったりしますが、本当にそうなったら、そうなったことなど覚えてないでしょう。
私が初めて神的なものに捉えられた時など、人通りの多い駅前ビルの片隅でずっとワンワン泣いていた訳で、人目にはさぞかし奇異に映ったことでしょうが、我を忘れるどころかあんなに意識が明晰になったことは全くありませんでした。
それが取りも直さず、思いを超えたということだったのですが...そんなことは私の思われた人生ではあり得ないことで、私の力、思議など全く及ばないことであるのは言うまでもありません。それは恩寵としか言いようのないものなのです。
私はその神的な思し召しのようなことに対して、"それは今だしのものだった"、などと言える道理などあるでしょうか?
恩寵の前には、ただ感謝して受け入れるしかありませんi 
私することも出来ません。私するとは囚われること、主に取って代わり、自分でコントロール出来るかのように図ることなどです。
自分の力で、絶えず飛び回り続ける思考を断じることなど出来るでしょうか?
本当の覚醒の境地を目指して、それに到達出来る人間など居るでしょうか?...こういうことは思われた人間がどうこう出来ることではないのです。
すべては神の御手のうちにあることなのです。(こう書くと私は所謂自力修行を否定しているみたいですが、あくまで自力の及ばなくなる地点から先の消息のことを言っているのです)
あなたが何時、どんな状態の時に恩寵の光を受けるか..."あなたの最善の時"は神がご存じなのです。
その時、所謂法悦状態というものがあるかもしれないし、無いかもしれない...どっちみち受け入れるしかありません。
まあ、大体は私の場合もそうでしたが、段々見た目奇異な感じは落ち着いてきて、深く浸透してくるのが普通だと思われますが、何が本当のエンライトメントの境地か?...何てことはこちらが決められるようなことではないでしょう。
その道程のある局面を捉えるのでなく、初めから終わりまで神のなせる業ではないでしょうか?
恩寵には囚われず、受け入れることがあるばかりでしょう。
コメント
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