人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

独り現臨にあって

2020-03-10 12:11:42 | 現臨、ハタラキ
いつも実感されることなんですが、自分でないもの...現臨と言っても、神的なもの、霊なるもの、思いを超えたもの...と、どう言ってもいいのですが、意識がそちらに向けられると、どういう訳か自分が思われたものでない、"本当の自分"みたいな感じになってくるのです。
これが例えば、"あなたは本来神と一つのもので、それが本当の自分なのですよ..."、という教えを信じ、そう思おうとしても中々そう実感出来ないのです。
こういうことに気が付いたのは、ブログを始めた時から"チラホラ"という感じだったのですが、理由がよく分からなかったのです。
今の今も意識が向いていて"じんじん"と...何でやろ?と...
そんなん、何でもヘチマもありゃしませんi...私がちゃんとここに書いているではありませんかi...
私はずっと"意識が向いたら、思いが離れる云々"...なんてことを書いていたのですi
(こういうことをチャチャっと書けるってのは、ひょっとすると天才かもしれない...しかし、自分で書いてて分からないというのは、よほどのバカでしょう)
だけど、注意しなければならないことは、そういう風に感じたからと言って、自分で"真我を実現した"などとは思わないことです。
まあ、そんな気で居ると思わぬ失態を見せて、化けの皮が剥がれるような試みに会うものなんですけどね...ちと鼻の高そうな人ならご存知でしょうけど...
そういうことは、どこまでも現臨、思いを超えたもの"にあって"、感じられるものなのです。
これにない時は思いが超えられず、どっかで思念的になってくるものです。熱心に信仰、修行しているようでも、そのものにない熱心さはかえって主我心を強めてしまい勝ちになります。
又、こういう風に外に向けて発信していると、読者の目を意識してつい自分を大きく、高いものに見せかけようとしてしまうものです。
ということは、それだけ思念を強めて行ってしまうということです。
人間って強そうで弱いものですが、こういうことが自覚出来るか、どうかというのが大きいことなのです。それ自体思いを超えたところからもたらされるのでしょうから。
せめて独り現臨にあって、内省してる時ぐらいは、自分に正直になれるものでしょう。
いいや、本当に自分に正直になれて、内省らしきことをやるんじゃなくて、"行われる"のは、そういう時をおいて無いと言ってもいいでしょう。
神的なものに向き合うということは、自分が偉くなるのでも、ダメ、バカでも、真も偽りもない、ありのままの自分に向き合うということでもあります。
コメント
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