いつも言うようですが、ここで書いていることは、私は教師でも何でもないので、"こういう教え、生き方をおすすめします"、なんてことじゃなくて、個人的に思い、感じていることを書いているのです。
それで、何かを伝えたいという意思はあるのだけれど、あくまで参考にして頂ければと思っているのです。
第一、簡単に書かれている通りになど出来ないでしょうし、それで私のような性格破綻者のようになっても知りませんよi
私は大体、いいものはいい、イヤなものはイヤ、ダメなものはダメ、出来ないものは、でけんi、と結構ハッキリしたところがあるんです。
例えば、嫌いな人間は嫌いなのです。それをいちいち、"そういう風に嫌っているのは、あなたの中に嫌いなものがあって、投影されているんですよお~"、とか不幸な事態に見舞われて、"そういうことになったのは、あなたが自分で選んでいるのですよ~"とか前世のカルマだとかナントカ...知るかってんですよi
聞かされる方は勿論、言っている方も本当にそういうことを分かって言っているんだかどうか?..何を釈迦が釈迦に説法みたいなことをシャカ、シャカと...
そうすると、イヤなものをイヤでなくなるように、好きになるように心持ちを変えるのだとか...色んな理屈はともかく、そうしてそうなるんなら大いにやったらいいでしょう。アタシャ、イヤですi、でけへんi
(こういう克己的精神を欠いた性格は、おそらく一社会人としては致命的な欠陥なのでしょう。要するに子供のままいいトシになってしまったということなのでしょう。もはやこれまでか?)
これは、ネガティブなことを否定してポジティブにしようということですね。良心的な人はそれで、そうならない自分を責めたりして、ネガティブの上にさらにネガティブなことを重ねて、どんどん葛藤を抱えることになってしまうのではありませんか?(私にも良心的な時代があった?)
私は"現実を受け入れる"、ということをしばしば言っていますが、それはこういうイヤなことを受け入れる、ということとは全く違うのです。
イヤになっちゃった現実を受け入れるということです。コロナにかかっちゃたらもうしょうがないのです。医者に行くなり、薬飲んで寝るなりしなきゃ...
何でそう言えるのか?...分かりきったことですi "イヤなことを抱え続けるのはイヤだi...それでもアタシャ幸福でありたいi"
無知、無能、意気地ナシ、ダメ人間、変態(?)...人が如何にネガティブのレッテルを張ろうが構うもんかi そういうのは世の人の頭の中にしかないのです。
受け入れるということは、"ネガに対するポジ"というニュアンスとは違います。
ネガだろうとポジだろうと、そのまんまをあたかも春の暖かい日差しを浴びているように、あのすべてを見透かす光(生き方とか思い方とかじゃなくてこれが私が伝えたいことなのですi)にゆだねる...これが何であろうと幸福なことなのですi
すると、嫌いな人間も嫌いじゃなくなってくるから不思議です。
勿論、クサクサしてる時とか重ーくなってる時は、そう簡単には思えないですよi
いや、だからねえ...思えんものは、思えんでいいのi
思えなかったら、人の居ないところか、心の中で思いっきり、全身全霊をもって、本当に神にぶつけるように、"思えねーっi"って叫ぶとかi(クサってる時はいいかも?)
私はメソッドみたいなことにはほとんど触れないけど、案外言ってたりして...勿論経験者が語っているのです。
それで、何かを伝えたいという意思はあるのだけれど、あくまで参考にして頂ければと思っているのです。
第一、簡単に書かれている通りになど出来ないでしょうし、それで私のような性格破綻者のようになっても知りませんよi
私は大体、いいものはいい、イヤなものはイヤ、ダメなものはダメ、出来ないものは、でけんi、と結構ハッキリしたところがあるんです。
例えば、嫌いな人間は嫌いなのです。それをいちいち、"そういう風に嫌っているのは、あなたの中に嫌いなものがあって、投影されているんですよお~"、とか不幸な事態に見舞われて、"そういうことになったのは、あなたが自分で選んでいるのですよ~"とか前世のカルマだとかナントカ...知るかってんですよi
聞かされる方は勿論、言っている方も本当にそういうことを分かって言っているんだかどうか?..何を釈迦が釈迦に説法みたいなことをシャカ、シャカと...
そうすると、イヤなものをイヤでなくなるように、好きになるように心持ちを変えるのだとか...色んな理屈はともかく、そうしてそうなるんなら大いにやったらいいでしょう。アタシャ、イヤですi、でけへんi
(こういう克己的精神を欠いた性格は、おそらく一社会人としては致命的な欠陥なのでしょう。要するに子供のままいいトシになってしまったということなのでしょう。もはやこれまでか?)
これは、ネガティブなことを否定してポジティブにしようということですね。良心的な人はそれで、そうならない自分を責めたりして、ネガティブの上にさらにネガティブなことを重ねて、どんどん葛藤を抱えることになってしまうのではありませんか?(私にも良心的な時代があった?)
私は"現実を受け入れる"、ということをしばしば言っていますが、それはこういうイヤなことを受け入れる、ということとは全く違うのです。
イヤになっちゃった現実を受け入れるということです。コロナにかかっちゃたらもうしょうがないのです。医者に行くなり、薬飲んで寝るなりしなきゃ...
何でそう言えるのか?...分かりきったことですi "イヤなことを抱え続けるのはイヤだi...それでもアタシャ幸福でありたいi"
無知、無能、意気地ナシ、ダメ人間、変態(?)...人が如何にネガティブのレッテルを張ろうが構うもんかi そういうのは世の人の頭の中にしかないのです。
受け入れるということは、"ネガに対するポジ"というニュアンスとは違います。
ネガだろうとポジだろうと、そのまんまをあたかも春の暖かい日差しを浴びているように、あのすべてを見透かす光(生き方とか思い方とかじゃなくてこれが私が伝えたいことなのですi)にゆだねる...これが何であろうと幸福なことなのですi
すると、嫌いな人間も嫌いじゃなくなってくるから不思議です。
勿論、クサクサしてる時とか重ーくなってる時は、そう簡単には思えないですよi
いや、だからねえ...思えんものは、思えんでいいのi
思えなかったら、人の居ないところか、心の中で思いっきり、全身全霊をもって、本当に神にぶつけるように、"思えねーっi"って叫ぶとかi(クサってる時はいいかも?)
私はメソッドみたいなことにはほとんど触れないけど、案外言ってたりして...勿論経験者が語っているのです。