人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

民族の神、実存の神

2021-04-10 10:47:58 | 宗教
「人は一人になった時に初めてキリスト教徒たりえ、仏教徒たりえ、又プラトン主義者たりうる」(D.H.ロレンス「黙示録論ー現代人は愛しうるかー」/ちくま学芸文庫)

我々日本人は、しばしば見逃してしまうように思われるのですが、キリスト教の母体となったユダヤ教というのは、"ユダヤ民族"に向けられた教えなのでした。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神...」彼らの先祖伝来の神を信奉していたのです。
これ、今じゃ特殊な人たち以外にはピンと来なくなっているでしょうけど、我々がかつて大和民族(?!)が皇祖皇宗の神を信奉していた(させられていた?)ことと相通ずることなのでしょうか?
ユダヤ教にも極右派とか、リベラル派とかがあるのかよく分からないので、短絡的なことは言えませんが、ユダヤ民族、大和民族...それらは、"民族学的"、学術的根拠があろうと、なかろうと、そうした歴史的、あるいは超歴史的統譜を持ったものを奉ずるところに自らの存在理由がある..."民族"特有の信仰の上に成り立っていると言えるでしょう。
ともあれ、戦後生まれの私は、多分多くの"同胞"の方たちと同様、自分の民族性については普段あまり意識していないのです。
ただ、私は、この一コの自分が一度アリアリと連綿と、その始めがどこにあるのか分からない、ある時間的、あるいは超時間的つながりにおいてあることを実感したことがあります。
今も尚、そういうつながりが息づいているのを感じます。
こう書いて、直ちに読み手に連想されるのは、幾世にも渡る先祖のつながり、即ち血統というものでしょう。
しかし、私がもっと強く感じたものは、それをも含めた霊統ともいうべきつながりなのでした。
それを道統と言ってもいいのか、精神的"道"に直接関わるものはこちらなのです。これに由らずば、その道を歩むことも、会い難きものにも会えないのではないか?
このことは民族的なものに帰せられるものではありません。
民族的なことでも、人種的なことでも、宗教的なことでも同じことです。それらは所詮、集団的思念に基づくものと言う他ありません。
そこからは私の実存は開かれることは無いのです。そして、個々の実存が開明されることは、普遍性が開示されることにつながるでしょう。
霊統にあって、我々は民族、人種、宗教を超えられるのです。
では、ユダヤ教や、かつて多く大和民族の示威を鼓吹したであろう、日本神道(これは、"外来"の国家主義と結び付いて、本来の有り様から歪められたものであったが)は、民族的な限界に閉ざされた、中途の段階の宗教に留まるものなのでしょうか?
そういう鬼の首を取ったようなことをキリスト教徒などは言うのかもしれませんが、相対的な宗派意識を超えられ無ければ同じことではありませんか?
"アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神..."先祖伝来の神を伝えたのは、在りて在るもの..."私は在る"ものではなかったか?
それは思弁的な哲学者の神にあらず、"本来"から言えば民族、人種、宗教を超えた、今も生きたもう実存的な神ではなかったか?
表向き、特有の民族に向けられたものであっても、一人一人の内奥に照らして接することも可能でしょう。本来性に帰るとは、命の次元に帰ることに他なりません。
私は前記したことに与った時、この国に古来から伝えられていた教えの内実に、直に見えたと感じさせられたのでした。



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