こないだ、久しぶりに職場でケンカしてしまいました。
相手はお得意先なので、立場を弁えなければならなかったのでしょうが、相手が上司だろうと、総理大臣だろうと、どうなろうと関係なくなるのがケンカというものです。
改めて感じました。私は容易に火が付く人間なんだと...。私の中にはねえ、火種が絶えずくすぶり続けているのですよi...色々な意味でね。
勿論、悪いとは思ってますよ。やっぱりああいうのは後味がよくありません。"あれ"と一緒でその時はストレスが解消出来て、気持ちいいのかもかもしれませんが、人と摩擦が出来て良い訳がありません。
そうですよ、私は悟ったような人間とは程遠いのです。
ケンカっ早い性分をことさら肯定する訳でも、ケンカを正当化するつもりもありませんが、そういう自分を否定も出来ません。
"ネガティブな思いというのは幻想なんです、人間は本来そういうものは無いのです"、なんて教えを信じ込もうとしたって、そういう要素があるから、ああいうことも起きちゃうのでしょうし、怒りが込み上げて来るのを感じちゃうんだからしょうがありません。
思えない、感じないものを無理に信じ込もうとするのはどこか不自然でしょう。
そうすると、その"悪い"思いは否定され、心の奥に押し込められ、表向きの"善い人"の仮面に隠れ続け、自覚されないまま増長されてゆくことになるでしょう。
怒り、狂気...ちょっと外に目を向ければ、もう回りはネガティブな思いで溢れかえっているようです。そして自分の中にも...
そういうものは本当に幻想に思えますか? 思えないものを思おうとすることで、自分を誤魔化すことになりゃしませんか?
しかし、ああいうのは後味が悪いもんだ、と感じるのなら、それはとても大切なことだと思いますよ。
そして、もっともっと大切なことは、そういう一時の怒りや相手を貶めようという思いよりも、もっと自分の奥に一時でなしに、ずっと息づいているものがあるのを感じられるか、どうかということです。
これは思いというよりも、それを超えたもの、神的な愛のようなものです。
後味の悪さを感じさせるものはここから来るのです。自分が信じている信仰や、守っている倫理道徳からではありません。
おそらくこれは、これまで多くの人がそういうものに知らずにか適用してきたものでしょう。
しかし、そういうものは、決してそのネガティブな思いの止め︿の無い表出、暴発を根本的に抑制するものとはならない、と言っていいでしょう。
何故ならば、具体的にその後味の悪い思いの奥に息づく、自分の本来性を感じることが出来ないからです。感じないものは現実に生きてこないのです。
そうです、これは私の本来性である、と感じています。本来からあるものはイチイチ思おうとする必要がありません。
そして、人の本来性とは自分だけに適応される訳がありません。
人には本来、そこからもたらされる根本的な律法というものがあるのではないでしょうか?
ネガティブな思いに駈られた時、私が心がけている、というよりか自然に赴いてしまうのは、それを否定したり、押し殺したりするのでなく、肯定するのでもなく、その思いを包みこんでしまうようなより大きく、深いものに意識を向けることなのです。
もっとも、性懲りもなくやらかしちゃう人間が、事後に言っているのだから説得力は無いかもしれませんが...
相手はお得意先なので、立場を弁えなければならなかったのでしょうが、相手が上司だろうと、総理大臣だろうと、どうなろうと関係なくなるのがケンカというものです。
改めて感じました。私は容易に火が付く人間なんだと...。私の中にはねえ、火種が絶えずくすぶり続けているのですよi...色々な意味でね。
勿論、悪いとは思ってますよ。やっぱりああいうのは後味がよくありません。"あれ"と一緒でその時はストレスが解消出来て、気持ちいいのかもかもしれませんが、人と摩擦が出来て良い訳がありません。
そうですよ、私は悟ったような人間とは程遠いのです。
ケンカっ早い性分をことさら肯定する訳でも、ケンカを正当化するつもりもありませんが、そういう自分を否定も出来ません。
"ネガティブな思いというのは幻想なんです、人間は本来そういうものは無いのです"、なんて教えを信じ込もうとしたって、そういう要素があるから、ああいうことも起きちゃうのでしょうし、怒りが込み上げて来るのを感じちゃうんだからしょうがありません。
思えない、感じないものを無理に信じ込もうとするのはどこか不自然でしょう。
そうすると、その"悪い"思いは否定され、心の奥に押し込められ、表向きの"善い人"の仮面に隠れ続け、自覚されないまま増長されてゆくことになるでしょう。
怒り、狂気...ちょっと外に目を向ければ、もう回りはネガティブな思いで溢れかえっているようです。そして自分の中にも...
そういうものは本当に幻想に思えますか? 思えないものを思おうとすることで、自分を誤魔化すことになりゃしませんか?
しかし、ああいうのは後味が悪いもんだ、と感じるのなら、それはとても大切なことだと思いますよ。
そして、もっともっと大切なことは、そういう一時の怒りや相手を貶めようという思いよりも、もっと自分の奥に一時でなしに、ずっと息づいているものがあるのを感じられるか、どうかということです。
これは思いというよりも、それを超えたもの、神的な愛のようなものです。
後味の悪さを感じさせるものはここから来るのです。自分が信じている信仰や、守っている倫理道徳からではありません。
おそらくこれは、これまで多くの人がそういうものに知らずにか適用してきたものでしょう。
しかし、そういうものは、決してそのネガティブな思いの止め︿の無い表出、暴発を根本的に抑制するものとはならない、と言っていいでしょう。
何故ならば、具体的にその後味の悪い思いの奥に息づく、自分の本来性を感じることが出来ないからです。感じないものは現実に生きてこないのです。
そうです、これは私の本来性である、と感じています。本来からあるものはイチイチ思おうとする必要がありません。
そして、人の本来性とは自分だけに適応される訳がありません。
人には本来、そこからもたらされる根本的な律法というものがあるのではないでしょうか?
ネガティブな思いに駈られた時、私が心がけている、というよりか自然に赴いてしまうのは、それを否定したり、押し殺したりするのでなく、肯定するのでもなく、その思いを包みこんでしまうようなより大きく、深いものに意識を向けることなのです。
もっとも、性懲りもなくやらかしちゃう人間が、事後に言っているのだから説得力は無いかもしれませんが...