"神とは、コレコレこういうものである。真我とは..."
と、このようにネットなどを通じて、実体が分からないものについて、決めつけたようなことを言う向きに対して、私はいつも首を傾げてしまわざるを得ません。
霊能者とか特殊な人にはあるいは独特の観方、感じ方というものがあるのかもしれませんが、常人にとってそういうものは知識、頭脳知を持ってしか知り得ないものという他ないでしょう。
とはいえ、私もこれまで何回となく、神や真我について言及したことはあります。
しかし、それが実体あるものとして、意味付け、結論付けることは不可能だし、してこなかったつもりです。
その他、"現臨"、"見えざる導き"...要するに霊なるもの、神的なものすべてがそうなのです。
しかし、しばしばそこで、"それが顕わになると、リアリティに与ることが出来る"、などと実体あるかの如く言い放ってしまうこともあります。
これは、そう感じることを言っているのです。それが何だか分からないけど、感じちゃうんだからしょうがないi
これは、"あーでもない、こーでもない"と、どこまで行っても観念の世界にしかたどり着けないようなマインド、思いが超えられたところで感じることなのです。
そこで語られるものに論理的に帰結されるものなど何もありません。あったところで、それが何に、どうなるというのかi...
思いを超えた、ということは分かる...それは勿論観念的に分かるということでなく、そういう感覚があるということに他なりません。そこから導き出せる言葉というのは、それを象徴するものを借りて言い表すしかありません。
"思いを超えること"...何度も言っていますが、これは分かる人には自明なことですが、分からない人には分からない...不毛な論理、議論をいつまでも繰り返しているしかありません。
思いを超えることというのは、少なくとも古来から伝えられている宗教的な道にあって、それは切り離せないものであるはずでしょう。
然るに、何故こうも宗教、スピの周辺には、理屈ごとに偏した言辞がうじゃうじゃと後を絶たないのでしょうか?
私が最近そういうものに接したのは、たまたまなのかもしれませんが、2、3の"禅仏教"に関するブログのコメ欄なのでした。
禅の道も前記したことから、外れるということは無いでしょう。
私は実修者でないので、詳しくは知りませんが、あれは頭脳知を超えた智恵、般若智というものに目覚めることを奨めているのではないですか?
その主の方の記事の内容が、理屈に偏しているとは特に感じられません。
しかし、どうも、(勿論すべてがそうだという訳じゃないですが)そういうコメが集まり易いのかなあ、と感じたりしました。
何故だろう?...思うに、これは禅といい、ある種の瞑想修行といい、所謂自力の道を伝える道にあっては、例えば"神の眩い光に、聖霊の、上よりの恩寵に打たれて生まれ変わりましたi"、というような"思いを超えせしめるあるもの"の消息があまり伝わってこないからではなかろうか?、と。
自力と言っても、そこにも何らかの自分を超えたものの関与というものはあるはずだ、と私は感じているのですが、頭脳知と超知、神知(?)とを分かつ際のところ、そうせしめるものを伝える部分がどうも弱い感じを持ってしまうのは私だけでしょうか?
その際が分からないから、なんやかやと言いたい御仁が後を絶たないのでしょう。
しかし、もしそういうウルサイ場に神的なものが臨んだら...シーンと静まりかえって、すべてのあれやこれやの雑音は止むだろう...
もっともそういう場には臨んで来ないのもフツーでしょうけど...
それを望まないものには臨まないのです。
今の時代は、望むものと、望まないものの二道がますます分かたれてゆく相を映し出しているようです...。
と、このようにネットなどを通じて、実体が分からないものについて、決めつけたようなことを言う向きに対して、私はいつも首を傾げてしまわざるを得ません。
霊能者とか特殊な人にはあるいは独特の観方、感じ方というものがあるのかもしれませんが、常人にとってそういうものは知識、頭脳知を持ってしか知り得ないものという他ないでしょう。
とはいえ、私もこれまで何回となく、神や真我について言及したことはあります。
しかし、それが実体あるものとして、意味付け、結論付けることは不可能だし、してこなかったつもりです。
その他、"現臨"、"見えざる導き"...要するに霊なるもの、神的なものすべてがそうなのです。
しかし、しばしばそこで、"それが顕わになると、リアリティに与ることが出来る"、などと実体あるかの如く言い放ってしまうこともあります。
これは、そう感じることを言っているのです。それが何だか分からないけど、感じちゃうんだからしょうがないi
これは、"あーでもない、こーでもない"と、どこまで行っても観念の世界にしかたどり着けないようなマインド、思いが超えられたところで感じることなのです。
そこで語られるものに論理的に帰結されるものなど何もありません。あったところで、それが何に、どうなるというのかi...
思いを超えた、ということは分かる...それは勿論観念的に分かるということでなく、そういう感覚があるということに他なりません。そこから導き出せる言葉というのは、それを象徴するものを借りて言い表すしかありません。
"思いを超えること"...何度も言っていますが、これは分かる人には自明なことですが、分からない人には分からない...不毛な論理、議論をいつまでも繰り返しているしかありません。
思いを超えることというのは、少なくとも古来から伝えられている宗教的な道にあって、それは切り離せないものであるはずでしょう。
然るに、何故こうも宗教、スピの周辺には、理屈ごとに偏した言辞がうじゃうじゃと後を絶たないのでしょうか?
私が最近そういうものに接したのは、たまたまなのかもしれませんが、2、3の"禅仏教"に関するブログのコメ欄なのでした。
禅の道も前記したことから、外れるということは無いでしょう。
私は実修者でないので、詳しくは知りませんが、あれは頭脳知を超えた智恵、般若智というものに目覚めることを奨めているのではないですか?
その主の方の記事の内容が、理屈に偏しているとは特に感じられません。
しかし、どうも、(勿論すべてがそうだという訳じゃないですが)そういうコメが集まり易いのかなあ、と感じたりしました。
何故だろう?...思うに、これは禅といい、ある種の瞑想修行といい、所謂自力の道を伝える道にあっては、例えば"神の眩い光に、聖霊の、上よりの恩寵に打たれて生まれ変わりましたi"、というような"思いを超えせしめるあるもの"の消息があまり伝わってこないからではなかろうか?、と。
自力と言っても、そこにも何らかの自分を超えたものの関与というものはあるはずだ、と私は感じているのですが、頭脳知と超知、神知(?)とを分かつ際のところ、そうせしめるものを伝える部分がどうも弱い感じを持ってしまうのは私だけでしょうか?
その際が分からないから、なんやかやと言いたい御仁が後を絶たないのでしょう。
しかし、もしそういうウルサイ場に神的なものが臨んだら...シーンと静まりかえって、すべてのあれやこれやの雑音は止むだろう...
もっともそういう場には臨んで来ないのもフツーでしょうけど...
それを望まないものには臨まないのです。
今の時代は、望むものと、望まないものの二道がますます分かたれてゆく相を映し出しているようです...。