人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祭りの本義

2021-04-12 12:16:52 | 日本的霊性
このコロナ禍により、昨年から各地の神社で例年のお祭りが中止を余儀なくされる事態が続いています。
まあ、私は元来、人がうじゃうじゃ集まるところは好きじゃないので、どっちでもよさそうなのですが、あの"ピーヒャラ、ピーヒャラ"、お囃子の音が聴かれないとなると、一抹の寂しさを覚えます。
ところでこのお祭りですが、"ワッショイ、ワッショイ"だけがそうでないのは言うまでもありません。
ちゃんとした儀礼というものがあって、あれはあくまでその余興なのです。
私は、何度か参加したことがありますが、それは勿論普通の神社でやっている"表側"の儀礼であって、所謂"神業"と言われるような、時に日常を超えたような事象も起きる、"裏側"の儀礼のことではないですよ(これにも何度か参加しました)。
ああいうのは、他の宗教と違って特定の教義に則る訳でないので、気安さというか、通常の宗教信者の意識には見られない解放感があります。
数年前の5月、浦和の氷川女体神社の祭礼に参加した時などは、特に何とも言えない和やかな雰囲気に包まれ、さらに初夏の風が実に心地良く、私の内奥にまで染み渡ってゆくようでした。
それらに誘発されたのか、いつの間にか意識が目に見えない方に向けられて...あの"じんじん"とした感覚が心身に伝わってきたのでした。
こうなると表側も裏側も、顕斎(普通の形のある儀礼)も幽斎(形の無い、見えないものとの関わりを伴った、儀礼を超えたもの)も区別がつかなくなりそうです。
そして、この表向きの集まりには、見えない共同性のようなものが内包されているようにも感じられました。
共同性、共同体的な意識というのは、単なる人間の集合体のことではありません。自己は自己でありつつ、その共同体と一如となっているような有り様のものです。
これが我が国では、古来より氏族共同体として伝わってきたものなのです。それは血縁だけに留まらない、見えないルーツである霊縁をも内包したものです。
いや、そもそもは"み霊による一致"、というものが無ければ、自己と他己、共同体との調和など生まれ得ようはずが無いのではないか?
血縁、霊縁からなる祖先伝来の神を斎祭り、そのみ霊を受けて同胞意識(これは狭義の氏族の概念を超えて、無限定に開かれてあることが暗示されている)を持って集まる、というところに祭礼の本義があるのではないか?
ここには横の同胞的つながりと、縦の歴史的、超歴史的つながりが合わさったものが隠れている...
と、いう風に書いていくと抽象的で、時代がかってきそうですが、現実には隣で何やら雑談しているオッサンは、何処の誰だか分からないのです。
ただ、そういうものを感じてしまうものが私の内には流れている、これがこの国に生まれた縁というものなのか、ということをその時に呼び覚まされた、ということなのです。
もっとも、いつもそうなるとは限らない訳で、それはみ霊の風向き次第ということなのでしょう。
すっかり春めいてきて、風が心地良くコロナのことなど忘れちゃいそうなんですけどね...。


コメント
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