人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来の私と愛

2021-08-09 08:22:08 | 
昭和83年8月、私が初めて精神的覚醒に与り、"人生の裏側"に踏み入れたことは、人間的にもっと学ぶことを要した、未熟な私には全く不相応なことだったと今でも思っています。
しかし、ハッキリと感じられることは、その時あまりにもぶっ超えていて、全く私の理解の及ばなかった事に、徐々に腑に落ちるように、理解がもたらされる、そういう導きが与えられているということなのです。
最近、そのことで強く思い起こされたことがあったのですが、"こんな重要なことなのに、何で今頃になって?"、という疑問も、これは"あまりにも私らしいこと"に関わることなので、その気付きは今に至るまで取って置かれていた(もっと有り体に言えば気付くのが遅かった)ということなのかな、と感じている次第です。
私はあの裏側の扉が開かれた時、"私は在る"、ということを目の当たりにしたのでした。このことは、"今頃何だi"、ということでなく、ずっと私の内奥で、自覚的に覚えられていることです。
私は在るということは、全く文字通り、ただ私は在るということ...そのことだけで至福に与っているようなことです。
その私とは、本来からの私、持って生まれたもののことごとくが知られていたのです。
スピ界隈には、"本来的な自己が真我で、後天的に自意識で作り上げられたものは偽我だ"、という説明もありますが、そこにはとにかく真も偽も無く、丸ごとの私がその本来性に休んじられていたのです。
何度か言っているように、私は真我というものの実体は分かりません。ただ、何が本来性からズレた在り方なのかは、そこに示されていたのです。(この理由で、今の私には真我というより、本来の私と言った方がピンと来ます)
それは、常に自分以外の他者というものを意識させるもののことです。"私は在る"ことに休んじていた時、実にこれが抜け落ちていたのですi
"私は特別な存在、私は正しい、私は進化している、私は悟っている..."、こういう意識状態は、すべて他者の存在を想定することによってしかもたらされないことが知られるでしょう。
自意識はそれによって、"私は在る"ことを認めてもらおうとします。(この背景にあるのは、"私は認めてもらえない、許されていない"、というある種の罪意識と言えるでしょう)
自我意識というものが、どういうものかがこれで分かるでしょう。多くの人間が自分と思っているものは、他者の承認によって作り出そうとしている虚像なのです。
"私は在る"ことは、許されて在るということ...それが本来性に帰ることに他ならないのですが、如何にそれまで、そうでないものにトラワレ続けていたかが如実に知らされたのです。
他者の承認は必要とされないので、自分が正しいとも特別だとも感じることはありません。ただ、私は私であっていいのですから...
こういうことは、しかし、ずっと私の内奥で覚えられていたものには違いないのです。あの抜け落ちた感覚がどっかへ行ってしまう訳が無いのですi
ただ、自我意識を克服されていないので(今でも)、表層意識には中々上って来なかった、ということなのでしょう。
克服しようにも、存在の根底にこびりついているようで、どうにもならないし...
自分でどうとかするよりも、神的なものを呼び込むことで、自然と本来性に目覚めて来るでしょう。
"神は私を許してくれない"...この思いが"私は在る"という、本来性から引き離されることにつながるのでしょう。
本来の自分を回復することは、神的な愛を回復することなのです。
コメント (2)
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