人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

二つの思考停止

2021-08-07 09:58:18 | 求道、探究
毎日、こう暑いと思考停止になりそうです。
思考停止。...この言葉がよく使われるのは、宗教やオカルトなどの教えにハマるようなことですね。
例えば、"人に前世というものがあるのは確かなことだ!"、などと自分で確かめた訳でも無いのに、ただ"大先生がそうおっしゃった!"、というだけで思考停止してしまい、それが啓示か何かのように、無批判に追従、奉ることになってしまうのです。
だけど、これは本当に思考停止に陥ってしまう訳では無く、実際は信じることを強固に思い込むことで、自由に思考を働かせることがフリーズしてしまうことに他ならないのです。
この有り様にはしかし、ある意味で精神的覚醒に伴う意識状態が、擬似的に写し出されているようにも感じられます。
擬似的と言っても、その導かれ方には、天と地ほどの開きが生まれるものではありますが...
思いを超えた恩寵の光、啓示の如きものが意識を貫く時、しばしば喩えでなく本当に思考が停止してしまうものです。
自分の意志では決して止めることの出来ないものが...そこに表層的思考をもってしては決して与りしれない、自己の内的、霊的実存が開示される...これを恩寵と言わずしてなんであろうi
ただただ、その神的現臨の前にひれ伏すのみ...
同じ思考停止のようになっていることで、一体何が違うのでしょうか?
言うまでもありませんね。思考が超えられているか、それにずっと固着し続けているかどうかの違いですi
この違いは、人間実存にとってどんな意味が存しているのでしょうか?
思念の奴隷になるか、それから自由になり、霊性が開かれるかどうかの違いです。この違いは、人の生にあって実に大きいものと言わねばなりません。
その感じ方のハッキリとした違いを言えば、自己の真の主体性を失うか、取り戻すかということです。真の自己を見い出すかどうかと言ってもいいでしょう。
本当に意識されるべきことは、自分の外に信じられている、神でも大先生でも教えでも無いのです。自分自身に意識が向けられずして、どうして真の自己を見い出せることが出来るでしょう?
自己の主体を容易く外なる神に明け渡してはならないのですi
そうならないためには...もっと考えなければなりません。無批判に他からの言葉に迎合してはならないのです。
前言では、"思考は要らない"、とは言ってませんよi...もっとも前世のことなど、考えても分からないことは、生まれ変わっても分からないでしょうけど...
考えることとは、内省することでもあります。自己の主体性を取り戻すことはどういうことなのか? どういうことが自己の目覚めにつながることなのか?
所謂狂信者には目覚めの契機は開かれないことには、こういう理があることを知らねばなりません。
自分自身で考え、内省出来る人とというのは、その限界を弁えることが出来るということです。だから、思いを超えたものがどういうものかが示されるのでしょう。
人間は考え次第で、天国にも行けるし、地獄にも落ちる...ケッタイな生き物ですね...。
コメント
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