私は、人生で最良のものを手に入れてしまったのです。
これさえあれば、たとえ私がどんなにダメで、ミジメでも、人が何と言おうが、幸福で居られるのです...。
なーんてこと、思っているうちに、その幸福はその手からスルリと抜けてゆくだろう...それは手に入れることなど出来ないのだから...(私は前の記事で、結論めいたことを書くと、すぐにそれを又解かしちゃうようなことを書くことを、性懲りもなく繰り返す性分があるのです)
だけど、そういう風に感じちゃうってのも事実ですよ。ですから、これはね、そういうものに"与る"ってことなのです。
与るってことは、私のものじゃない。そう、無いi...無に与る、ってのもヘンな言い方ですが、ああいう至福感というものは、無と隣り合わせのものなのです。
"私が思っていたことも、為して来たことも無に帰してしまったi..."そこから開かれてゆくものなのですから...
それは無化するハタラキにより、文字通り、思いや為そうとする意志が無力化してしまうことですが、同時にその"一個なる自分というものは、それだけで存在していない"、という意味で、無であることをも目の当たりにさせられるのです。
私という個は、有機的つながりにおいてある、ということ...個的なものと、普遍的、全体的なものとは相依、相則していること...これは仏陀が縁起というもので説いていたことです。
こういうことは、近年、"ホロン"という概念で、ニュー.サイエンスとか、トランス.パーソナルと言われる方面などでも究明されて来ていますので、多くの人に知識的にも理解されているのでしょう。
では、悟りというものは、そういうことを知的にではなく、思いを超えた意識の次元で目覚めることなのでしょうか?...誰が?、誰に?
私という個は、普遍なるものとつながっているのだから、私だけで悟るということは無いのでしょう?
もっと肝心なことに触れてみましょう。
思いや人為的なものが無になる...個と普遍の有機的つながりのことが示される...このことが分かったというだけなら、知的に分かることとどう違うのでしょうか?
"それはだから、表層的知性レベルか、深層的意識レベルの違いだi"、と言われりゃそうなのかもしれませんが、ただそういう説明を受けただけでは、肝心なことは伝わって来ません。
誰が悟るのか分からないことは置いといて..."愛と平安"、それに与れるかどうかが肝心なことなのです。
そもそも、無に与る、つながりに与る、こういうことは、思いを超えたものによってしかもたらされることが無いはずのものです。
少なくとも私は、愛と平安をもたらすもの~神的なものに与ること無しに、何かの真理を究めようと意識が赴くことはありませんでした。
そのことは、ああいう体験をする以前から感じていたことで、その体験を通じて、そのことをより目の当たりにさせられたとも言えるのです。
そして...神的なものは私することが出来ないi...それは無と隣り合わせのもの...このことから予感させられるものがあります。
私のものでなければ誰のもの?...私が人生で最良のものに与るということは、誰のものでもなく、あらゆる人もそれに与れるということではないのでしょうか?
神的なものにあるということは、私とすべてのものは、切り離すことが出来ないということなのだから...
これさえあれば、たとえ私がどんなにダメで、ミジメでも、人が何と言おうが、幸福で居られるのです...。
なーんてこと、思っているうちに、その幸福はその手からスルリと抜けてゆくだろう...それは手に入れることなど出来ないのだから...(私は前の記事で、結論めいたことを書くと、すぐにそれを又解かしちゃうようなことを書くことを、性懲りもなく繰り返す性分があるのです)
だけど、そういう風に感じちゃうってのも事実ですよ。ですから、これはね、そういうものに"与る"ってことなのです。
与るってことは、私のものじゃない。そう、無いi...無に与る、ってのもヘンな言い方ですが、ああいう至福感というものは、無と隣り合わせのものなのです。
"私が思っていたことも、為して来たことも無に帰してしまったi..."そこから開かれてゆくものなのですから...
それは無化するハタラキにより、文字通り、思いや為そうとする意志が無力化してしまうことですが、同時にその"一個なる自分というものは、それだけで存在していない"、という意味で、無であることをも目の当たりにさせられるのです。
私という個は、有機的つながりにおいてある、ということ...個的なものと、普遍的、全体的なものとは相依、相則していること...これは仏陀が縁起というもので説いていたことです。
こういうことは、近年、"ホロン"という概念で、ニュー.サイエンスとか、トランス.パーソナルと言われる方面などでも究明されて来ていますので、多くの人に知識的にも理解されているのでしょう。
では、悟りというものは、そういうことを知的にではなく、思いを超えた意識の次元で目覚めることなのでしょうか?...誰が?、誰に?
私という個は、普遍なるものとつながっているのだから、私だけで悟るということは無いのでしょう?
もっと肝心なことに触れてみましょう。
思いや人為的なものが無になる...個と普遍の有機的つながりのことが示される...このことが分かったというだけなら、知的に分かることとどう違うのでしょうか?
"それはだから、表層的知性レベルか、深層的意識レベルの違いだi"、と言われりゃそうなのかもしれませんが、ただそういう説明を受けただけでは、肝心なことは伝わって来ません。
誰が悟るのか分からないことは置いといて..."愛と平安"、それに与れるかどうかが肝心なことなのです。
そもそも、無に与る、つながりに与る、こういうことは、思いを超えたものによってしかもたらされることが無いはずのものです。
少なくとも私は、愛と平安をもたらすもの~神的なものに与ること無しに、何かの真理を究めようと意識が赴くことはありませんでした。
そのことは、ああいう体験をする以前から感じていたことで、その体験を通じて、そのことをより目の当たりにさせられたとも言えるのです。
そして...神的なものは私することが出来ないi...それは無と隣り合わせのもの...このことから予感させられるものがあります。
私のものでなければ誰のもの?...私が人生で最良のものに与るということは、誰のものでもなく、あらゆる人もそれに与れるということではないのでしょうか?
神的なものにあるということは、私とすべてのものは、切り離すことが出来ないということなのだから...