人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現存するものと現れるもの

2021-08-22 09:51:46 | 求道、探究
日本神道など、神々の世界のことに関わる道では、当たり前のようにその神が実在しているように語られるようですが、言うまでもなく本当に実在しているかどうかは分からないのです。
分からないものを"実在するのだi"、なんて決めつけたりすると妄想に陥ってしまうでしょう。
とにかく、神界でも霊界でもいいですが、思いを超えた世界のことは、何一つ決めつけられるものはない、というのが私の実感したことです。
神は実在するかどうかは分からないけれど、一つ存在論的に実在するというよりは、疑いようのない実存、現存、現臨(こういう風にしか言いようがない)というものがあるのです。
私など、これを仮に神と呼んだりするのですからイイカゲンな話ですね。(イイカゲンでいいじゃないかi、分からんのだから...)
仮に...ということは姿も見えない、名付けようのないものを、形をもったものとして、名前をもったものとして、それらをイメージ出来るものを"借りて"、"そういうものに見立てる"ということをしたりします。
神々というものは、太古の昔の人間だったのか、どうかも分からないことですが、我々人間の世界は、諸々の時所位などの縁故というものと関わっているものなので、それに応じたものを借りることで、より身近なものとして感じられるようになるのです。
人間はそもそも縁を借りて生まれ、生きているものでしょう?
私には、こういう理解の仕方というものは昔から常識です。この常識を弁えないから妄想ごとで頭が一杯になってしまうのでしょう。
このように、現存するものと、仮(借)に現(表)れるものとを区別することが大事なのです。
そのことがひいては思いの世界と、それを超えた世界との違いを弁えることにつながるでしょう。
だからと言って私は、現存するものの方が真実で、相対的現れの世界は、幻想だと言っている訳ではありません。
例えば、私にとっての主なる神をOOの神に"見立てた"として、それを幻想だと言い切ったり出来るでしょうか?
我が主は、(他の人にはどうか知りませんが)けっして幻想なんかじゃないですよi
これはどういうことかというと、主なる神に現存、現臨するものを感じるかどうかということ...言い換えれば、現存しない神は、私の主なる神ではないということです。(私の実存と直結しない他の神々のことは知りませんが...)
つまり、思いを超えた神的なものは、相対的仮現の世界をも貫いて現存、現臨するということですi
こういう実感は、おそらく相対を超えた根源の世界だけからはもたらされないだろうと思います。
私は相対的現実を背負って生まれ、生きているのだから...
ここに、相対的現実に絶対的神的実在が顕現するという予感がある...。









コメント
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