人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

形ある、形なき最愛のもの

2021-11-21 10:03:39 | 
こないだ、チャリンコを飛ばしていたら、道端で子猫が鳴いているのを見つけました。
気にはなったのですが、"可哀想だけど、私には何もしてあげられないし、関わると色々面倒なことになるし..."、と通り過ぎたのですが...
2、30mぐらい離れてから、"あー、ダメだi、放っとけないi"、と戻ることに...しかし、猫もすばしっこい、居なくなっていました。
こういう行動の様は、私の性格の一端を端的に表していると言えるでしょう。
ドライなようで、情にもろい。分かりにくくて、分かりやすい性格でしょ(笑)
それにしても、私の人生で何回、こうした気持ちの、時間のズレによる、スレ違いというものを経験してきたことかi
最初は迷い、考えていて、振り返った時は一目散、迷いが無い...そして、相手も無いi
しかし...この胸に息づく本来的な愛は失われていないi
それは抽象的に、"愛とはなんぞや?"などと思い描かれるようなものではありません。具体的に感じられるものなのです。
といっても、勿論それはモノじゃありません。形が無いものなので、"これですi"、と示せるものじゃない、感じてもらうしかありません。
では、何なのだろう?...この世にはおそらく言い表す言葉が無いものなのでしょう...愛そのものとしか言いようがありません。
それは、私には数年前までは分からなかったのです。いやどっかで分かっていたのですが、こんなにも具体的に感じられようとはi...
それは、"最愛なるもの"に意識が向けられることから始まったのです。
最愛なるもの...普通はそういう人であったり、ペットであったり、形をもったもの、その対象として捉えているものでしょう。
私の場合も、一寸スレ違いになった、その時の最愛の人への思いから端を発していました。失ってから気付かされたのです。
いつしか形ある、対象として思われていたものが、形なき、対象なきものに溶け込んだようになったのです。
そして、それは元々私自身と分かち難く息づいていたものに他ならないことに気付かされたのです。それが本来的な愛というものです。
形ある最愛のものは、いつしか失われてしまうものだし、第一、こちらの気持ちが、いつまでそのように思われているか、分からないものでしょう。
愛であったはずのものが執着になったり、憎しみに変わってしまうかもしれないのです。こう考えれば、"愛とは幻想"...多分、それも真理でしょう。
しかし、この内なる本来的な愛は変わらないのです。
だから、今現在、最愛のものと関わっている人も、それを失って悲しみを持ち続けている人も、"形あるものが形なきものにつながる、つながっている"、そのように感じてみれば、その見える対象も違ったものに感じられて来るかも分かりません。
そしてこれは、自分自身のことについても同じであるはずです。
こういうことは、多くの人には、意識する、しないに関わらず、多少なりともそれとなーく経験されていることと思うのですが...だから、一寸意識してみれば...
なーんて、何気なーく私も書いているのですが、これは、人生は勿論のこと、世界も歴史も一変するような、途方もないことに触れるものという気がするのは...私だけであろうか?
コメント (2)
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