人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

批評、批判、中傷

2021-11-27 10:28:29 | 雑感
最近、近代日本の代表的批評家、小林秀雄さんの「考えるヒント」(文春文庫)を読んでいたら、ビックリするような文章が目に留まりました。
「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事にはっきりと気づく。...人をけなすのは批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。...」
批評とか評論ってそういうものだったのかi...いや、小林秀雄さんってそういう人だったのかi、と言った方がいいのかもしれません。(あまり熱心な読者でなく、よく知らなかったのです)
私には、"批評には批判というものが付き物だ"、という強い固定観念がありましたから...今の批評の在り方に接しても、その感を強くするのは否めないものがあります。
勿論批評は、その対象となる言説に異を説え、否定的な見解を取る批判とは違い、それのみで成り立つものではありません。
賛辞とまでは行かないまでも、共感の辞を表すこともあるでしょう。又批判は即悪口になるというものでもありません。
ちゃんと、相手に対し一定の(良い)評価をもった上での、節度のある批判は必ずしもそういうことには価しないでしょう。
私もここで書評みたいなものを書いたりしてまして、時にはエラそうに批判めいたこともしますが、そもそもそこに、全く共感するものを感じなければ、取り上げようという気も起きません。
批判のための批判はしないつもりで、そういうことは別のところでします。そこでは悪口も言ったりするかもしれませんが(やらないに越したことはないi)、私が直接知っている訳でもない、何かされた訳でもない、見ず知らずの人にそれを向けようという気には(あまり)なりません。
ただの悪口は中傷というものでしょう。批評、批判、中傷...。案外この区別は曖昧になっているように感じてなりません。(特に後の二つのそれがi)
今では、小林秀雄さんが孔子様みたいに思えますが、聖人君子でない、私にもそういう部分があるからそのように感じてしまうのでしょう。
もう、とにかく他に向けて批判するのは勿論のこと、批評するというだけで、最初から論破し、相手を貶める精神的態度を見せるようなことが、言葉のやり取りする場で溢れかえっていることからそんな思いを抱かせるのでしょう。
異論、批判はあってもいいけど、ただの中傷は、相手も自分も泥を被るだけです。頭でっかちになるだけの知識教育の偏重、それに伴う感情の歪みを見せつけられるばかりです。
偏った知性ほど知性から逸脱したものはないのではないか?...豊かな感情が伴ってこそ、知性の向上というものがあるのでしょう。

最近、ここのコメント欄に、"negative capability"、とだけ、それだけだと何のコメントだか、さっぱり分からない言葉が投げ込まれておりました。どう返していいか分かりませんが、どうもネガティブな記事に対する、ネガティブなコメントではなさそうです。
"ネガティブ.ケイパビリティ"...それは、私が一年半ぐらい前に初めて知った言葉で、何でも英詩人ジョン.キーツの言葉に由来するそうで、"不確定なものを受容する能力"、といった意味があるそうです。
私にそんな能力があるのかどうか知りませんが、私の内部には"不確定なものは決めつけられない、それは否定したりしないで受け入れなければならない"といつも促されているものがあります。これは能力じゃなくて、(そう書いてある)"キャパ"のことでしょう。私が"出来る"以前に、備えられているのですから...
これにより、私のこれ又生来からの他者の言動に対し、ムキになろうとする性向が抑えられているのです。
それは、きっと相手を受け入れる、ということにもつながるのでしょう。
自重して行きたいものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする