人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

いつも、そこに愛が在ったi

2021-11-23 10:04:45 | 
今度、新たに「愛」というカテゴリーを設けてみました。
思えば、随分書いてきたものですが、私のように愛に見放されたような(?)人間がそんなことになってしまうなど、ブログをする前には想像もしていませんでした。
私は複雑な家庭環境にあった、幼少の頃から普通思われているような愛というものとはあまり縁が無かったのかもしれません。
いや、だからというべきか...普通思われていないような(?)愛に与り、書き表すことが出来るのかもしれません。
これは、本当に、ホント~に私の人生で大きな意味を持っていた、と言えるのです。多分、ブログをしていなければ分からなかったでしょう。
これは又、私の精神的な歩みにおいても重要な意味を持っていたのです。
私がずっとこの私の中に息づいている、愛そのものを具体的に感じ始めた、4年ぐらい前の頃は、それまでどうしても払拭出来なかった、"究極の悟り"みたいなものを追い求め、それに駆り立てるような思いから自然に離れて行った時期と付節が合っているのです。
そういうものを追い求めているのは、主我的な思い、エゴからではないのか?
頭では分かっている...いや、だからこそ、そういう思いから離れられないのですi
分かっているともi...だってそういう思いに囚われていて、心の底から愛、平安というものを感じられないではないか?
私は本当には、思いを超えたものに与ることが無かったのですi
そこへ、一つの節目が訪れたのは、そもそもの精神的目覚めの原点に戻らされたことです。
"現臨"、といったことを盛んに言い表し始めた頃です。すべてはこの思いを超えたものから始まっている...そしてそのものにある時、愛、平安があるi...目覚めの原態とは、神的な愛に捉えられるということの他に何があるのかi...それ抜きに何も起こりようが無い、どこにも落ち着かないではないかi...そう、落ちないのですi
愛に落ちなければ...主我的な思いから離れることは出来ないi
愛に落ちるってどういうことなのか?...って、頭の堂々巡りは、具体的にそういうものを感じたら、いつの間にか止みました。(つまり、そういうことですi)
そして"究極の悟り"だとか、有るのか無いのか、分からないもののことなどどうでもよくなりました。
意識は現実に"惹かれてやまないもの"に赴く...
そうして、私はどうしても払拭出来なかった、主我的な思いを克服したのですi...って、違いますよi
私が何した、出来た、ハッた、というのがガンなのですi
私がどうこう、ということなどどっちでもよくなること、自ずと思いがそっちに向かってしまう、落ちてしまうということが...つまりそこに"愛が在る"、ということなのです。
然るに、私の人生で、自分で考えや行いを改めた、克服したなんてことがあっただろうか?
すべて、思っているもの以上のもの、惹かれ、愛してやまないものに会わされたからではなかったか?
そうですi...いつも、そこに愛が在ったのです。
コメント
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