人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈り心

2021-11-01 10:07:07 | 祈りと瞑想
このブログをずっと読まれている方ならお分かりでしょうが、私がよく祈りについて言っているものは、宗教的行事としての、所謂"祈り"のことばかり扱っている訳ではありません。むしろそうでないことの方が多いのです。
ですから宗教に囚われる必要はないと思いますよ。人間は宗教を、神を信じなくたって祈るものでしょう?
自分の力というものの限界を知らされた時に、そのような心持ちが生まれるのです。
ある人は、"自分の持てる力をとことん使って、その限界に達した時に自分を超えた力が開かれるのだ"、何てこと言われるかもしれませんが、これは如何にも自分の力、自力に依り頼んでいる人向きの話であって、一理はあるけど、そうでないことも沢山あるし、私のような最初から投げてるような根性なしにゃどうともならないことでしょう。
こういうことは、このコロナ禍にあって否応なしに知らされているのではありませんか?
ともかく、そうして初めて自分を超えたものに意識が向かわされ、仰ぐということになるのです。
これは、当たり前のように思われるかもしれませんが、案外曖昧になっている部分も見受けられます。特に信仰しているような人たちに...
例えば、ある教えを信じ、そこでは祈ることを教えられ、毎日毎日決められたように祈る...祈りが行のようになる訳ですが、そこから上記したような契機が生まれるかどうかは分かりません。むしろ自分の信念ばかりが強くなってゆくかもしれないのです。
祈ることで自分をどうとかしようとか、何かになろうとか、どこまでも自分を立ててゆくように...
そして、そうした宗教的なものと絡む祈りというものは、自分の願い事を叶えてもらおうとする、願望と結び付くものですね。
これも自分の思いに囚われていることであり、祈りの対象となる神仏はそのダシにされているようなものです。
それでは、いつまで経っても(別に神でなくてもいいですが)自分を超えたものに意識が向けられ、思いが開かれることは無いでしょう。
そこには祈り心というものが見られないのです。それを欠いたところにそも祈りなどというものがあるでしょうかi
それは、自分の力が塞がり果て、降参しないと分かるものじゃありません。
祈り心とは言い換えれば敬虔な心、砕かれた心と言っていいでしょう。
そして、そうした自分を超えたものに向けられ、頂く契機というものは、所謂"祈りの行の時間"の外にいくらでも開かれているじゃありませんか?...(といって、そういう時間を疎かにしていいと言ってる訳じゃないですよi)
要するに、祈り心にある時、既に祈らされているということです。
親鸞さんじゃないけど、"じねん"にそうなります。
"時間です、じゃあ祈りますかあ"、何てことじゃないのですi 祈りの時間が終わってもなお、祈らされていたらどうするんでしょうか?
何ごとにおいても、意識の在り方というものが如何に大切か、ということです。
自分を超えたものに意識が向けられ、開かれることをここで広く"祈ること"、否"祈らされること"、と言っている次第なのです。
コメント
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