人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存感覚の目覚め

2023-09-04 10:20:02 | 求道、探究
昨日、記事をUPした頃から、何かスコーンと抜けた感じがあり、容態はだいぶ楽になりました。
“ナーニ、2.3日もすれば良くなりますよ!“、という担当医の予言通りだった!
宗教、カルトの予言なんかより、よっぽど信用出来るではないか?
というわけで...
長年、自分自身に得心しているでもなく、ただ無批判に、盲目的にある宗教に信従してきた者が、一転して、その自分自身を空性の内に解消させてしまう道に走ってしまうことも珍しいことではないようです。
前者は、信じる自己があり、信じる対象が完全に二元的に分離した有り様であるのに対して、後者は、“私は居ない、すべてはストーリー“、といった、近年の極端な非二元の教えに見られるようなそれと言えるでしょう。
両極端のように思われがちですが、両者には大きな共通点があります。
それは、自分自身に意識が向けられていない、実存感覚を欠いているということです。
そのような主体性を欠いていることは、常に自分以外のものに権威を置き、依存し、支配されてしまうことになり、ついには、そのあやふやな自分ごと消し去ろうというに至る訳です。
実存感覚を欠くということは、自分の軸となる、中心となるものを持たないということ、人生で決定的な意味を持つ、“超越的実存“の“内的実存“への切り込みという、神的なもののリアリティを知らないということです。
だから、彼の精神には、リアルならぬ、不確かなもの、実存的な神ならぬ、サタンや闇の力やらの恐ろしいものなどでいっぱいなのです。そして、常に真偽の分からない、どうでもいいことに囚われ続ける...
こうした精神で、“覚醒します!“、なんていうのは、全くの絵空事という他ありません。
自分が何で長年、これといった目覚めらしきものに与ることが出来ないのか、少しく、自分自身に内省してみたら分かるではないか?
ん?...それが出来ないから長年ボーッと修行らしきことをしているしかないのですね?
と、いつの間にか例によって、最近FaceBookを始めたというT画伯のことに触れてしまうのですが、縁のある私から愛?を持って余計なアドバイスをするとすれば...
感ずるに、この人は長年師事してきた五井先生の道が、きちんと自分自身の問題として、受け入れられていないようなのです。
例えば“自分を信じ、自分を愛す“という教えなど...実存とか難しいこと言わなくても、これが自分自身に意識を向けることに他ならないのです。
“覚醒しなきゃあ!“と、向こう見ずな、抜き差しならぬ方向に赴くのを踏みとどまませるのも五井先生でしょう。
やっぱり、この人の救世主は五井先生だと思います。
かく言うのは、憎まれ口ばかり叩く私ではない、五井先生が成り代わって言うのです?
これが聞けないんなら、もう宇宙のチリとなるしかないだろう...
いや、この人はそんなことは皆捨てて、チリを芸術作品のように見せる道があったか!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする