神とか超越的なものといったものなど本当は存在してなくて、すべて自覚されることの無い、潜在意識とか、自己の知られざる機能がもたらしているのかもしれません。
又逆にそういうものは、本当に我々の力を超えて存在しているのかもしれません。
真相は?...勿論分からないですよ!...だから、分かったようなこと、決めつけたことを言う方がおかしいのです。
一つ言えることは、潜在、深層意識、人間の知られざる機能だとして、表層意識では分からないという意味で、それは自分の思いを超えたものであるのは確かなことでしょう。
又、“それは科学的に証明されている“、と鬼の首を取ったようなことを言う向きもあるかもしれません。
だからそれは、ただ、誰かが言ってる、その証明されたことを信じているだけなのであって、自分の表層に直接示されたものでも、自覚されたものでも何でも無いのですよ!
要するに、具体的に自分は何を、どう感じているかどうかが肝心なことなのです。
そうでないものは、所詮理屈に過ぎません。
現実に意識が広がったり、深くなったりしてもいないのに、理屈で納得したつもりの人多くないですか?
私は、神的なものが自己実存に臨めば、愛、平安がもたらされると何度も言ってますが、そういう言葉をいくら信じてたって、それが感じられなかったらしょうがないのです!
身もフタも無いような言い方ですが、もしホントにそういうものを感じてみたいのなら、理屈で自分の頭を縛るの辞めてみたらどうですか?
自分の思いが自分を不自由にしていることに気付いてみたらどうですか?
そう、自分の思いから自由になることが愛、平安に与ることなんだ、とそう言っているのです!
だから、ヤッパシ、自己実存というものは、自己を超えたものと切り離されない、ということなんですよ!
だから神は居るんだ!...って、別に存在論的に信じる必要も無いのですが...
いや、信じたかったら信じてもいいでしょう。
ここでは信じようと、信じまいと思いを超えたものは感じることが出来る、と言っているのですが、決めつけたり、絶対視しなければ、それは基本的に分からないものだ、ということを弁えていれば何だっていいのです。
神や霊的存在が、絶対的なものではないけれど、仮に現れることもあることを私は否定してません。
そこでも、自分がどう感じているかがおざなりにされると、妙な、不自由な偶像崇拝に陥ったりします。
そうでなければ....“何を信じようと、信じまいと私の自由だ!
思いを超えたものは結局は分からない!
分からないから自由なのです。自由に感じることが出来るのです。
又逆にそういうものは、本当に我々の力を超えて存在しているのかもしれません。
真相は?...勿論分からないですよ!...だから、分かったようなこと、決めつけたことを言う方がおかしいのです。
一つ言えることは、潜在、深層意識、人間の知られざる機能だとして、表層意識では分からないという意味で、それは自分の思いを超えたものであるのは確かなことでしょう。
又、“それは科学的に証明されている“、と鬼の首を取ったようなことを言う向きもあるかもしれません。
だからそれは、ただ、誰かが言ってる、その証明されたことを信じているだけなのであって、自分の表層に直接示されたものでも、自覚されたものでも何でも無いのですよ!
要するに、具体的に自分は何を、どう感じているかどうかが肝心なことなのです。
そうでないものは、所詮理屈に過ぎません。
現実に意識が広がったり、深くなったりしてもいないのに、理屈で納得したつもりの人多くないですか?
私は、神的なものが自己実存に臨めば、愛、平安がもたらされると何度も言ってますが、そういう言葉をいくら信じてたって、それが感じられなかったらしょうがないのです!
身もフタも無いような言い方ですが、もしホントにそういうものを感じてみたいのなら、理屈で自分の頭を縛るの辞めてみたらどうですか?
自分の思いが自分を不自由にしていることに気付いてみたらどうですか?
そう、自分の思いから自由になることが愛、平安に与ることなんだ、とそう言っているのです!
だから、ヤッパシ、自己実存というものは、自己を超えたものと切り離されない、ということなんですよ!
だから神は居るんだ!...って、別に存在論的に信じる必要も無いのですが...
いや、信じたかったら信じてもいいでしょう。
ここでは信じようと、信じまいと思いを超えたものは感じることが出来る、と言っているのですが、決めつけたり、絶対視しなければ、それは基本的に分からないものだ、ということを弁えていれば何だっていいのです。
神や霊的存在が、絶対的なものではないけれど、仮に現れることもあることを私は否定してません。
そこでも、自分がどう感じているかがおざなりにされると、妙な、不自由な偶像崇拝に陥ったりします。
そうでなければ....“何を信じようと、信じまいと私の自由だ!
思いを超えたものは結局は分からない!
分からないから自由なのです。自由に感じることが出来るのです。