私がこれまで学んできた精神的な道において、もっとも啓発を受けた言葉を挙げてみると...すぐ思い浮かべられるのは、ラマナ.マハルシの「神、導師、真我は同意語である」というものです。
初めてこの言葉に接したのは、忘れもしない昭和58年の夏のことで「南インドの瞑想」(めるくまーる刊)というラマナの講話を集めた本を読んだことからなのでした。
最初は、当然のことながら”そういうものかなあ”、という程度のもので、抽象的な理解に留まっていたのは言うまでもありません。
ところが、それから数日後、初めて精神的な目覚めに与ることになり、このことを直に、目の当たりに示されるということがあったのです。
しかし、その覚めた意識も再び日常の意識に覆われることで、元の黙阿弥となり、その直覚的な理解もいつしか消えて行ってしまったのでした。
直に感じられないものは、ただの理屈にすぎません。
この言葉が本当に腑に落ちるようになったのは、漸くこのブログを始めた時からと言ってもいいでしょう。
具体的に言うと、現臨感がより深まって来たことに拠るのです。
神的なものが臨むことは、より自分自身が深まるということを意味しているのです。
何が真我であるか、ということは分かりませんが、少なくとも現臨にある私は、思っている私を超えており、又本源的なものだ、と言うことは言えます。
ここにおいては、神の意識と私の意識が合わない、食い違うということはありません。
だから、神に願いを聞いてもらうとかいう発想は後退せざるを得なくなります。
神に意識を向けるということはあります。だけど来てもらう訳じゃないですよ!
私自身に意識を向けることと同じなのですから...
私自身に超然として、私を支配する神というのは、現実に私の実存に臨む神ではなく、そう信じられ、思われた神に過ぎないのです。
神的なものと真我的なものは同じである...しかし、そこには大きな落とし穴があります。
思い、為そうとする私が真我ではないということです。自我は常に真我に取って代わろうとしています。
だから、私は神と一つである、などと観念的に思う必要は無いのです。思っている私に帰される何ものも無いのです。
だからだから、思いを超えたもの、超越者、神を意識する必要があるのです。そして、このこと自体が(自分の思い、力でということでなく)、思いを超える、思いから離れることを意味しているのです。
思っている私は、先の理由で導かれなければならないのです。導師という自己と向き合うもの(自己にま中に相まみえる...これが端的に現臨即ち神、主の臨在というものなんだ!)が無ければ、明け渡しということもありません。
明け渡しの無い精神的目覚めというのは偽りでしかありません。
真に、神、導師、真我は同じである...それは現臨にあって言えることなのです。
初めてこの言葉に接したのは、忘れもしない昭和58年の夏のことで「南インドの瞑想」(めるくまーる刊)というラマナの講話を集めた本を読んだことからなのでした。
最初は、当然のことながら”そういうものかなあ”、という程度のもので、抽象的な理解に留まっていたのは言うまでもありません。
ところが、それから数日後、初めて精神的な目覚めに与ることになり、このことを直に、目の当たりに示されるということがあったのです。
しかし、その覚めた意識も再び日常の意識に覆われることで、元の黙阿弥となり、その直覚的な理解もいつしか消えて行ってしまったのでした。
直に感じられないものは、ただの理屈にすぎません。
この言葉が本当に腑に落ちるようになったのは、漸くこのブログを始めた時からと言ってもいいでしょう。
具体的に言うと、現臨感がより深まって来たことに拠るのです。
神的なものが臨むことは、より自分自身が深まるということを意味しているのです。
何が真我であるか、ということは分かりませんが、少なくとも現臨にある私は、思っている私を超えており、又本源的なものだ、と言うことは言えます。
ここにおいては、神の意識と私の意識が合わない、食い違うということはありません。
だから、神に願いを聞いてもらうとかいう発想は後退せざるを得なくなります。
神に意識を向けるということはあります。だけど来てもらう訳じゃないですよ!
私自身に意識を向けることと同じなのですから...
私自身に超然として、私を支配する神というのは、現実に私の実存に臨む神ではなく、そう信じられ、思われた神に過ぎないのです。
神的なものと真我的なものは同じである...しかし、そこには大きな落とし穴があります。
思い、為そうとする私が真我ではないということです。自我は常に真我に取って代わろうとしています。
だから、私は神と一つである、などと観念的に思う必要は無いのです。思っている私に帰される何ものも無いのです。
だからだから、思いを超えたもの、超越者、神を意識する必要があるのです。そして、このこと自体が(自分の思い、力でということでなく)、思いを超える、思いから離れることを意味しているのです。
思っている私は、先の理由で導かれなければならないのです。導師という自己と向き合うもの(自己にま中に相まみえる...これが端的に現臨即ち神、主の臨在というものなんだ!)が無ければ、明け渡しということもありません。
明け渡しの無い精神的目覚めというのは偽りでしかありません。
真に、神、導師、真我は同じである...それは現臨にあって言えることなのです。