現在の白光会のあり方は別として、五井先生を信奉する人たちの間では、その教えに則った行法として、先生の残した統一指導のテープを聞くというやり方がずっと定着しているようです。
これは、先生の体の衰えから直接指導に立たれることが難しくなったことから、そのような形になったのでしょうが、私が先生に共鳴して、定期的に市川にあった道場に通っていた時からそうだったのです。
しかし私には、もしその行が悟り、本心開発を目指すものだとして、中々そのように導かれるようには感じてこなかったのでした。
導入として、入りやすくするというのなら分かりますが、それに終始してしまうというのはどうなのか??...中にはそれでそのように導かれた人も居るのかもしれませんが、私はほとんど聞いたことがありません。
その理由として、どうしても直接的アプローチでない点が大きいのです。
この直接的ということは、私が直にそれを行い、携わるという意味ではなく、この場合、テープの音声を聴かなければならないという、“行“が介在するということです。
これが形式化すると、ずっとテープに依存し続けなければならなくなってしまうでしょう。
あの見えない導きの契機というのは、いつどこに開かれるか分からないのです。テープの操作などしてる場合じゃないですよ!、即応性が求められるのです。
直接性というものがどういうものかお分かり頂けたでしょうか?
肝心の五井先生本人がその著書などで、口笛や柏手を直に聞くことはともかく、その指導テープを聞くことに触れていることなど、私は読んだ記憶が無いのです。
こんな理由で、私は五井先生の教えによって、悟ったかどうかは別として、あの安らぎに導かれたということは無い...訳ではありません!
それは、その著書などで、随所でポツンと数行、読み過ごしてしまいそうな言葉にあったのです。
例えば、“神といっても掴めないから祈ることが大切なのです“、“祈ることで神様の中に思いを入れてしまうことです“、そうすると“いつの間にか心が幸福、安らぎに満たされるのです“、というように、私は、いつの間にかそのように導かれてしまったという次第なのです。
本当にいつの間にか!...これはこちらの思いを超えているということでしょう。
もっとも、このことを認識したのは後付けのことで、要するに“そういうことだった!“ってことなのです。そのことを一寸思い浮かべただけで、神的なものに包まれるのが感じられて来るくらいですよ!
私は多分、教団の主導による行法には馴染まなかったのですが、先生のより即応性、直接性に開かれた教えには導かれたと言っても過言ではありません。
言い換えれば、白光会という宗教集団には馴染まなかったけれど、五井先生は、その外では私に直接生きていたということでしょう。
これは、先生の体の衰えから直接指導に立たれることが難しくなったことから、そのような形になったのでしょうが、私が先生に共鳴して、定期的に市川にあった道場に通っていた時からそうだったのです。
しかし私には、もしその行が悟り、本心開発を目指すものだとして、中々そのように導かれるようには感じてこなかったのでした。
導入として、入りやすくするというのなら分かりますが、それに終始してしまうというのはどうなのか??...中にはそれでそのように導かれた人も居るのかもしれませんが、私はほとんど聞いたことがありません。
その理由として、どうしても直接的アプローチでない点が大きいのです。
この直接的ということは、私が直にそれを行い、携わるという意味ではなく、この場合、テープの音声を聴かなければならないという、“行“が介在するということです。
これが形式化すると、ずっとテープに依存し続けなければならなくなってしまうでしょう。
あの見えない導きの契機というのは、いつどこに開かれるか分からないのです。テープの操作などしてる場合じゃないですよ!、即応性が求められるのです。
直接性というものがどういうものかお分かり頂けたでしょうか?
肝心の五井先生本人がその著書などで、口笛や柏手を直に聞くことはともかく、その指導テープを聞くことに触れていることなど、私は読んだ記憶が無いのです。
こんな理由で、私は五井先生の教えによって、悟ったかどうかは別として、あの安らぎに導かれたということは無い...訳ではありません!
それは、その著書などで、随所でポツンと数行、読み過ごしてしまいそうな言葉にあったのです。
例えば、“神といっても掴めないから祈ることが大切なのです“、“祈ることで神様の中に思いを入れてしまうことです“、そうすると“いつの間にか心が幸福、安らぎに満たされるのです“、というように、私は、いつの間にかそのように導かれてしまったという次第なのです。
本当にいつの間にか!...これはこちらの思いを超えているということでしょう。
もっとも、このことを認識したのは後付けのことで、要するに“そういうことだった!“ってことなのです。そのことを一寸思い浮かべただけで、神的なものに包まれるのが感じられて来るくらいですよ!
私は多分、教団の主導による行法には馴染まなかったのですが、先生のより即応性、直接性に開かれた教えには導かれたと言っても過言ではありません。
言い換えれば、白光会という宗教集団には馴染まなかったけれど、五井先生は、その外では私に直接生きていたということでしょう。
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