人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

言葉を超えて、言葉で伝えること

2018-01-06 12:21:30 | 哲学・思想
私は、随分とこれまでここで無謀にも、言葉で言い表わすことの出来ない世界について、自分の力不足を省みずに、言葉をもって伝えようなどと目論んでしまったことでしょう。
それらはどんなトーンで語られようと、借りもの、仮ものに過ぎないのは言うまでもありません。
私はしかし、幾度か哲学者や神秘思想家などが、その内なる心像で捉えられ、表現出来得る限界まで挑みつつ、有限なる言葉を借りてその思議を超えた世界の様相を語ってきたことに接して、言い尽くせない感動を覚えました。
"よくぞ、言ってくれたi"と...
そこに抽象的な哲学的思索の辿跡は感じられても、彼らの内面は既に思椎を超えた領域にあったのです。
主観的自己への、客観的対象への観察には、しばしば思考を超えた領域よりの光、イルミネーションの照射が差し込んだことでしょう。
哲学的省察とは、本来そこに向けられるものでしょう。
そこにこそ、所謂合理性と結び付かない"悟性"なるものの真実の意味合いが生きてきます。
この事を抜きにして哲学的パトスなどあり得ないのです。
パトスとは熱情、情感...哲学的思索の源泉は、詩的直感と一つのものでしょう。
詩人は心像にあるものを言葉に移し変え表現することが出来ます。
彼の世界の音信は詩的言語で言い表わし得ます。
例えば ...無条件の愛...
これはそうした実感の表明に違いありません。
"無条件とはどういうことか? 諸々の条件によって世界は成り立っているのに、無条件の愛とは如何に?"
理が介入した途端、無条件では無くなります。それは条件的に説明されるものでは無いからです。
"個というものは無い"、"全体しかない"、"ただ起こるものが起きているだけ"、というものもある実感として述べられるもので、私にも頷けるものもあります。
しっかし...そのことを量子力学まで借り、持ち出してまで世間にその正当性を証明しようと目論むなどi...
物理学者は皆"Aha"となるだろう...科学者が皆詩人だったら核兵器などこの世に生まれなかっただろう...
言葉を超えた世界と、言葉を使わなければならない世界との在り方、伝え方の混線した有り様...
切り離すことの出来ないものを片ちんばに切り取っての分離的非二元説法...
彼の世界のことは、非二元、二元、全体 多様 ...どんな括りで説明しようとしても、一面的なレッテルをそこに貼り付けた途端、そこで本当に伝えようとしたものは、スルリとそこから抜け落ちてしまうのです。
その世界への参入には、思考は超えられなければならないものですが、そこには思考の源泉と愛を実感する感情とは一つになっているのです。
スピ界隈にはあまりにも主観的感情を表に出して、その真実性を主張するあまりか、理証に走る傾向があります。
それが上記したような偏った言説につながるのです。思索と離れて心像に映し出された直感を表現するには詩的なものとならざるを得ないでしょう。
そうでなければ言葉の限界というものをもっと弁えるべきかと思います。
又、直感と離れた思索には生命が通わず、論証のための論証、観念の上滑りの堂々めぐりになるばかりです。
自戒の意味でこうしたことを書いているのですが、願わくは、あの原初的な思椎、情感の分かつことの出来ないものでありつつ(それは自己を超えたものと共にあることを言っています)、自然に相対相応に表わすことが出来ればと思っています。













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