"びんたん"なる掲示板のスピに関するスレに、こんな内容の書き込みがありました。
ある人(この周辺で頻繁に登場するワイさん?)が自分自身を観察しているのは、真我でなく、自我だ、と言っていたことがとてもヒントになっているようなのですが、真我意識を感じるために、自分で気付こうとすればするほどそれを感じられなくなる、と...又、瞑想中でも真我意識を感じられず、運転している時とか、テレビを観ている時、ふと気付かされるのだ、とのことです。
これは真我に気付く上で、とても本質的なことを突いているように思います。
何時も言うように、思われた自分からは、思いを超えた自己(真我)に気付くことが出来ないのですi
それは、思いを超えて観照するもの(照明)によって気付かされることなのです。
だから...真我に気付くとか言いますが、気付こうと思う必要など無いってことになりそうですね。
ただ、日射しを感じているように、その照明に意識を向け、感じていればいいのでしょう。
(もう、ほんの一寸意識しただけで耳鳴りキン、キン、体はジン、ジンですよ)
真我と言っても、それが何であるかは分からないのです。
ただ、それは思われたこの自分でないことは、思いが超えられたことで分かるのです。
だから、この言葉はあくまで便宜上のものにすぎません。
真我を差してしばしば、先の観照するものとか、純粋意識とかに置き換えて言われたりするのですが、これは思いを超えたものの消息を十分に伝えるものではあっても、それがイコール真我とは言えないのです。
ところが、私と違って?お利口そうな人というのは、もうとにかく、真我と自我はかくかくのように違うもので、自我はいつも自分を欺くもので、油断もならないものなので、消し去らねばならないとか、そのためにはよーく自分を観察して、たゆまぬ瞑想修行に勤しむ...もしくは"自我は消さねばならぬi"という思いが強すぎるからか、そういう自分はそもそも存在していないことにしちゃったりするようです。
しかし、どこまでも、どこまでも、そう考えている自分は居るだろう...(居て悪いか?)
こういうことは、得てして思われた自分の限界内で"思われ"、行われている、ということにならないでしょうか?
自分が思い、目論み、真我に目覚めた人とか、何かになろうとしている...結局は、"自我の、自我による、自我のための戦い"の堂々巡りになるばかりなのではないか?
これは、そもそもの自己を超えさせしめるものに対する認識が足りないというところから来るのではないでしょうか?
つまり、それはその真我(仮称)というものの他者性、超越性について言っているのです。
もっともこの場合は、真我というより、神、神的なものと言った方がピンとくるでしょう。
私自身が心がけていることは、要するに、真我になる、神になる、なろうとする、あるいはそうなったつもりになることじゃないのです。
"他者的、超越的な真我、神的なものと共にある...かくあらん"、ということです。
これはいつでも、どこでも意識していることでそう感じせしめられるのです。
自我があろうと、超えられようと、あるまいと...それらは神におまかせしているので、("自我めがあi"とか)神経症みたいになることもありません。
そして思いがけず、"あらまー"という間に現臨に包まれてしまいます。
これが"神、真我的なものと共にある"ということに他ならないのです。
ラマナ.マハルシに見るように、真我の実現には、宗教的帰依の道と切り離されていないことを強く思わされます。
ある人(この周辺で頻繁に登場するワイさん?)が自分自身を観察しているのは、真我でなく、自我だ、と言っていたことがとてもヒントになっているようなのですが、真我意識を感じるために、自分で気付こうとすればするほどそれを感じられなくなる、と...又、瞑想中でも真我意識を感じられず、運転している時とか、テレビを観ている時、ふと気付かされるのだ、とのことです。
これは真我に気付く上で、とても本質的なことを突いているように思います。
何時も言うように、思われた自分からは、思いを超えた自己(真我)に気付くことが出来ないのですi
それは、思いを超えて観照するもの(照明)によって気付かされることなのです。
だから...真我に気付くとか言いますが、気付こうと思う必要など無いってことになりそうですね。
ただ、日射しを感じているように、その照明に意識を向け、感じていればいいのでしょう。
(もう、ほんの一寸意識しただけで耳鳴りキン、キン、体はジン、ジンですよ)
真我と言っても、それが何であるかは分からないのです。
ただ、それは思われたこの自分でないことは、思いが超えられたことで分かるのです。
だから、この言葉はあくまで便宜上のものにすぎません。
真我を差してしばしば、先の観照するものとか、純粋意識とかに置き換えて言われたりするのですが、これは思いを超えたものの消息を十分に伝えるものではあっても、それがイコール真我とは言えないのです。
ところが、私と違って?お利口そうな人というのは、もうとにかく、真我と自我はかくかくのように違うもので、自我はいつも自分を欺くもので、油断もならないものなので、消し去らねばならないとか、そのためにはよーく自分を観察して、たゆまぬ瞑想修行に勤しむ...もしくは"自我は消さねばならぬi"という思いが強すぎるからか、そういう自分はそもそも存在していないことにしちゃったりするようです。
しかし、どこまでも、どこまでも、そう考えている自分は居るだろう...(居て悪いか?)
こういうことは、得てして思われた自分の限界内で"思われ"、行われている、ということにならないでしょうか?
自分が思い、目論み、真我に目覚めた人とか、何かになろうとしている...結局は、"自我の、自我による、自我のための戦い"の堂々巡りになるばかりなのではないか?
これは、そもそもの自己を超えさせしめるものに対する認識が足りないというところから来るのではないでしょうか?
つまり、それはその真我(仮称)というものの他者性、超越性について言っているのです。
もっともこの場合は、真我というより、神、神的なものと言った方がピンとくるでしょう。
私自身が心がけていることは、要するに、真我になる、神になる、なろうとする、あるいはそうなったつもりになることじゃないのです。
"他者的、超越的な真我、神的なものと共にある...かくあらん"、ということです。
これはいつでも、どこでも意識していることでそう感じせしめられるのです。
自我があろうと、超えられようと、あるまいと...それらは神におまかせしているので、("自我めがあi"とか)神経症みたいになることもありません。
そして思いがけず、"あらまー"という間に現臨に包まれてしまいます。
これが"神、真我的なものと共にある"ということに他ならないのです。
ラマナ.マハルシに見るように、真我の実現には、宗教的帰依の道と切り離されていないことを強く思わされます。
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