宗教やスピ界隈では、様々な教師が様々な教えを説いていますね。
あの教師はこう言ってる、この教師はああ言っている...時にお互い批判、誹謗し合っているなんてこともザラにあるものです。
特定の教師に盲信している信者なら、その教師がかくかく言っていた、という理由だけで信従してしまうものですが、私のように複数の教師に心惹かれて来たような人間は...勿論ありましたよ、何がホントなんだか分からなくなって迷うなんてことも...
これは、どっかでその教師を特別視するところから来るんです。
盲信、狂信してる人は一層そうなっていて、それだけ自分のことは信頼してないのです。だから、いつまでたっても信者意識から抜けられず"自分自身であること"が出来ません。
当たり前のことのようですが、我々は皆ただの人間なのです。教師、導師といえどそう。
人間は各々観方、感じ方、歩み方も因縁も違う訳で、私自身のことについても、そう理解が深まることで、段々と"ああ、教師たちも各々、そうした相対的なところから様々なことを言っているんだなあ..."と理解するようになりました。
その批判的な言辞にしても、単純に善し悪しを判断出来るものばかりではありません。
一人一人異なっているのだ、ということを弁えていれば、そんなに相対観念を強めてゆくこともないと思うのですが...
要するに言うのも、信じるのも、従うのも人の好き好きってことです。
そして大事なことは、第二義、末節的なことは置いといて、そこに共感出来るものがあるか...つまり、その教師、教えに愛、平安、リアリティが感じられるか、どうかが肝心なことなのです。これが大局的なことなはずでしょう。
私はこういう感覚が発現してくるのを通して、相対性を超えた普遍性へと意識が向けられるようになりました。
つまり、それは見えざる導きによるものだったのです。
それは又ある種の道標というか、規範みたいなものですが、目に見えるモノサシみたいなものでなく、なんとなーく、といってもハッキリとも、感じることで示されるものです。
ただ自分でそう感じていればいいだけのもので、これをやたらと頼みもされないのに、"あなた、正しいのはこっちなんですよi"なんて、他に向けたりするのは余計なお世話というものでしょう。(これをやってるのは、うっとしおしい信者たちです)
人は皆、私がそうであるように、各々の因縁のもとに自由に観て、感じて生きているものだから...
ただし、ある人が所謂洗脳カルト集団に関わろうとしているような場合などはこの限りではありません。
実際にある知人にキッパリと「悪いことは言わないから、一刻も早くそこを離れろi」と言ったこともありましたが、こういうものに関わることは、人生における取り返しの着かないミステイクにつながるものです。
宗教やスピには、カルトというものが付きもので、その見極めは見た目には難しいもの(その団体がカルトと断定出来なくとも、何人かカルト的な信者というものは居るものです)ですが、感覚的にハッキリ示されるものではあります。
私は二重人格よろしく寛容性をとても大切にする反面、カルト的な精神に対しては全くそうでないところもあるのです。どちらの感じも私は身をもって知らされていたのですが、これはどうも見えないところから来るようです。
あの教師はこう言ってる、この教師はああ言っている...時にお互い批判、誹謗し合っているなんてこともザラにあるものです。
特定の教師に盲信している信者なら、その教師がかくかく言っていた、という理由だけで信従してしまうものですが、私のように複数の教師に心惹かれて来たような人間は...勿論ありましたよ、何がホントなんだか分からなくなって迷うなんてことも...
これは、どっかでその教師を特別視するところから来るんです。
盲信、狂信してる人は一層そうなっていて、それだけ自分のことは信頼してないのです。だから、いつまでたっても信者意識から抜けられず"自分自身であること"が出来ません。
当たり前のことのようですが、我々は皆ただの人間なのです。教師、導師といえどそう。
人間は各々観方、感じ方、歩み方も因縁も違う訳で、私自身のことについても、そう理解が深まることで、段々と"ああ、教師たちも各々、そうした相対的なところから様々なことを言っているんだなあ..."と理解するようになりました。
その批判的な言辞にしても、単純に善し悪しを判断出来るものばかりではありません。
一人一人異なっているのだ、ということを弁えていれば、そんなに相対観念を強めてゆくこともないと思うのですが...
要するに言うのも、信じるのも、従うのも人の好き好きってことです。
そして大事なことは、第二義、末節的なことは置いといて、そこに共感出来るものがあるか...つまり、その教師、教えに愛、平安、リアリティが感じられるか、どうかが肝心なことなのです。これが大局的なことなはずでしょう。
私はこういう感覚が発現してくるのを通して、相対性を超えた普遍性へと意識が向けられるようになりました。
つまり、それは見えざる導きによるものだったのです。
それは又ある種の道標というか、規範みたいなものですが、目に見えるモノサシみたいなものでなく、なんとなーく、といってもハッキリとも、感じることで示されるものです。
ただ自分でそう感じていればいいだけのもので、これをやたらと頼みもされないのに、"あなた、正しいのはこっちなんですよi"なんて、他に向けたりするのは余計なお世話というものでしょう。(これをやってるのは、うっとしおしい信者たちです)
人は皆、私がそうであるように、各々の因縁のもとに自由に観て、感じて生きているものだから...
ただし、ある人が所謂洗脳カルト集団に関わろうとしているような場合などはこの限りではありません。
実際にある知人にキッパリと「悪いことは言わないから、一刻も早くそこを離れろi」と言ったこともありましたが、こういうものに関わることは、人生における取り返しの着かないミステイクにつながるものです。
宗教やスピには、カルトというものが付きもので、その見極めは見た目には難しいもの(その団体がカルトと断定出来なくとも、何人かカルト的な信者というものは居るものです)ですが、感覚的にハッキリ示されるものではあります。
私は二重人格よろしく寛容性をとても大切にする反面、カルト的な精神に対しては全くそうでないところもあるのです。どちらの感じも私は身をもって知らされていたのですが、これはどうも見えないところから来るようです。
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