前回でも触れたように、昭和54年春、私に現臨感覚が芽生えたということは、実存感覚に目覚めたと言ってもいいのです。
それを象徴する出来事は、ある会合である人が所謂霊的な体験について語っていた時でした。
その人は何やら幽体離脱のようなことから、その霊界らしき世界に遊行した模様を語っていたのですが、どうもそこでのその人の行動とか、見たり、聞いたりした事柄というものが、この世的でなく、トンだところはあるものの、パターンそのものは、相対的なこの世のものの延長のように感じられたのでした。
その有り様は、聞いていて普通に思い描くことが出来るものでしたが、あの曰く言い難い、魂が揺さぶられるような、生の燃えるような高揚感というもの、有り体に言えば、思いを超えたものの消息は伝わってこなかったのです。
このことは、もっと後にアリアリと実感したことなのですが、その時既に本当に霊的なものがこちらに臨み、超越的な光に与ることは、実存を照らし、開かれることになることは覚えられていたのです。
そこでの、思い描かれたような霊的な話には、リアリティが少しも感じられません。それは超越的にして、実存的な感覚から来るのです。
このようなことは、読書傾向に顕著に表れました。
以前のように、何段階かあるような、相対的に思い描けるような霊界の諸相であるとか、過去世とか未来世とか、この“実存的現実“から遊離してしまうこと、いや第一、その真偽を確かめようの無いことなどには、容易く迎合しなくなったのです。
これは又、その年頭で味わった、神のことや霊のことなどには、上っ調子に興味本位で近づくとイタイ目に会う、という教訓から来てもいるのでした。
とにかくその当時次々に出会った書物、「小池辰雄」先生の諸著、「大調和協会」の三千冊と言われる書き物、やや遅れて「ベルジャーエフ」...これらはいずれも超越的にして実存的なものの消息を伝えるものばかりだったのです。
その中には、「マクドナルド.ベイン」であるとか、知られざる「要之神示」(今もなお出されている「ミロク神示」の前身)といった、アカデミックな世界からは”トンデモ本”として片づけられるような“神がかり“、“交霊術“に関するものもあります。
要は、たとえ何ものが語ってようと、フィクションだろうと、現実に魂が揺さぶられるものがあるかどうかということが第一義なのであり、形その他は二の次なのです。
それを言うなら、一体「ドストエフスキー」のフィクション小説に、小林秀雄、亀井勝一郎、唐木順三の諸先生始め、我が国の思想家、文学者がどれだけ、その実存的啓発を受けて来たかについて想起されたらいいでしょう。
“ドストエフスキーを通過せずして、文芸、文明批評のことなど語るな!“、というくらいではありませんか?
私はこれらの書物を通過することで、どれだけ超越的にして実存的なものについて啓発されて来たか図り知れないものがあります。
しかし、小池先生やベルジャーエフの本に散見する、その実存という意味などサッパリ分かりませんでしたが...
意味が分かったところで、魂が揺さぶられずして実存のことなど語られようか?!
それを象徴する出来事は、ある会合である人が所謂霊的な体験について語っていた時でした。
その人は何やら幽体離脱のようなことから、その霊界らしき世界に遊行した模様を語っていたのですが、どうもそこでのその人の行動とか、見たり、聞いたりした事柄というものが、この世的でなく、トンだところはあるものの、パターンそのものは、相対的なこの世のものの延長のように感じられたのでした。
その有り様は、聞いていて普通に思い描くことが出来るものでしたが、あの曰く言い難い、魂が揺さぶられるような、生の燃えるような高揚感というもの、有り体に言えば、思いを超えたものの消息は伝わってこなかったのです。
このことは、もっと後にアリアリと実感したことなのですが、その時既に本当に霊的なものがこちらに臨み、超越的な光に与ることは、実存を照らし、開かれることになることは覚えられていたのです。
そこでの、思い描かれたような霊的な話には、リアリティが少しも感じられません。それは超越的にして、実存的な感覚から来るのです。
このようなことは、読書傾向に顕著に表れました。
以前のように、何段階かあるような、相対的に思い描けるような霊界の諸相であるとか、過去世とか未来世とか、この“実存的現実“から遊離してしまうこと、いや第一、その真偽を確かめようの無いことなどには、容易く迎合しなくなったのです。
これは又、その年頭で味わった、神のことや霊のことなどには、上っ調子に興味本位で近づくとイタイ目に会う、という教訓から来てもいるのでした。
とにかくその当時次々に出会った書物、「小池辰雄」先生の諸著、「大調和協会」の三千冊と言われる書き物、やや遅れて「ベルジャーエフ」...これらはいずれも超越的にして実存的なものの消息を伝えるものばかりだったのです。
その中には、「マクドナルド.ベイン」であるとか、知られざる「要之神示」(今もなお出されている「ミロク神示」の前身)といった、アカデミックな世界からは”トンデモ本”として片づけられるような“神がかり“、“交霊術“に関するものもあります。
要は、たとえ何ものが語ってようと、フィクションだろうと、現実に魂が揺さぶられるものがあるかどうかということが第一義なのであり、形その他は二の次なのです。
それを言うなら、一体「ドストエフスキー」のフィクション小説に、小林秀雄、亀井勝一郎、唐木順三の諸先生始め、我が国の思想家、文学者がどれだけ、その実存的啓発を受けて来たかについて想起されたらいいでしょう。
“ドストエフスキーを通過せずして、文芸、文明批評のことなど語るな!“、というくらいではありませんか?
私はこれらの書物を通過することで、どれだけ超越的にして実存的なものについて啓発されて来たか図り知れないものがあります。
しかし、小池先生やベルジャーエフの本に散見する、その実存という意味などサッパリ分かりませんでしたが...
意味が分かったところで、魂が揺さぶられずして実存のことなど語られようか?!
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