人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは方法を超えている

2022-10-11 09:54:25 | 祈りと瞑想
“私にとり精神的な道において、方法らしきものがあるとすれば、それは祈りである“、と何度も言ってますが、それは通常思われているような方法とは性質が違うものであるのは言うまでもありません。
何か悟りというか、空の境地にならんがために祈りの行をしている向きもあるようですが、如何にも自分が、自分の思いで、祈りという行を用いてやっている、という感がしてならないのです。どこか、祈りというよりも、念力的な感じが抜けていないようなのです。
そして自分の目的をそこに立てる。祈りは通常、願い事を立てることと結びつけられていますが、空になるため、とかとなるともっと念が強まったものを感じます。
そういう念が強いほど却って、神的な方に開かれる通路は塞がってしまうのではないでしょうか?
それは、こちらの思い、為すことにより開かれるのではありません。あちら、思いを超えたものによって為さしめられるのです。
こちらはただあちらに意識を向けていたらいい...いや、それは向けさせられていることと一つである。祈ることは、祈らされることである。だから、それは方法というものを超えているのです。
念力的なものはさて置き、人情として、願いを持つということはあるでしょう。
自分を超えたものにより頼む...しかし、その自分の思いから発した願いがいつの間にか、本願的なものに溶け合って、神的なものが顕わに臨んで、個々の願いが愛、平安といった本源的なものに溶けてしまうことになったりすることも...あるかもしれません。
悟りの境地を得るために、祈りをする訳ではありませんが、微妙な言い方ですが、私の場合、神と一つに、一如にならんがために...という願いみたいなものは、どうしても消えないようなのです。
これは、やっぱりそちらに意識が向けられているからでしょう。
いや、あちらがそう導いているようにも感じるのです。
だんだん“私が!“、という思いが離れてゆく...私“が“悟ることなどどうでもよくなる...
そういう思いが中々抜けなかったこともあります。しかし、神的なものと離れることは迷いでしかないのです。
わが主無くして、一体どこに導かれようか?!
こういうことに私は、ごく自然に導かれたように感じてなりません。
こちらの何かの方法をこうじたという感じがしてこないのです。
こうじる以前に、神に意識が向けられ、つながってしまうからでしょう。
とはいえ、“ばっ、と神が臨むと言ったって、何にもそこに方法とか取っ掛かりが無いではないか?“、という向きのために、“それは祈ること“、と言ったりもするのですが、私自身それにより導かれたことも確かなことなのです。
でも、やっぱりそれは方法を超えたものと言う他ありません。
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