人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

体験は必要か?

2021-05-26 11:54:29 | 覚醒
私がこのブログを始めた当初、どっかで外に向けて、悟りや覚醒体験といったものを推奨するようなことを意識していたところがありました。
それには、折から所謂ノンデュアリティなどの悟り系スピが隆盛になる兆しがあり、アチコチでそういう事例が報告されているという時流に乗っかった部分もあったのです。
しかし...ネットなどでそれらに当たってみて、如何にもその体験そのものが独り歩きして取り沙汰される傾向、又ある集会でその体験に与った人が、人前で突然、大声で笑いだしたりなど、一寸精神的にバランスが取れていない様に接し、そこに何かとても重要なものを欠いていることに気付き、"体験すりゃいいってもんじゃないi"、ということを身につまされて感じることになったのでした。
まず、悟り、覚醒というものに、自分自身のこととして意識を向ければ...これはそれをもたらす源泉、神的なものに目覚めることであるのは自明ではないかi...悟りや覚醒自体を問題にするのなら、ただぶっ飛んだという異常心理と大差ないではないか?...神に根差さない体験など何の意味があるだろうか? だから、そんなものよりも神がアリアリと臨むような、"神体験"をしなければならないのですi...
なーんてそんなこたないi
ああいう体験に与ることは、それを通じないと分からないことがある、つまり未知のものであるのは一面の事実です。
しかし、それはそれ以前から内心感じていたものであったのも事実なのです。
内心...普段は意識されていないということ、頭脳知では知られていないということ...つまりそこで呼び覚まされるものは意識する、しないに関わらず、ずっと我々の内に息づいているものに他ならないのです。
呼び覚まされる...その瞬間誰もが"そうだったのかi"、と全身心が頷かざるを得なくなるようなことです。
これは、ある意味で、失われた記憶の回復でもあるのですが、回復されるものは、いつだってここにあるのもホントのことではないか?
以前、私はそういう体験をしたいという知人に「どうして、あなたはそういう体験をしたいのですか?」と訊いたところ彼は「だって、それは今生で味わえないほど素晴らしいことなんでしょう?」というので、私はさらに「体験したこともないのに何でそんなことが分かるのですか?」と訊いてみました。
私がこういうことを訊きたくなったのは、彼が頭の知識だけで、そう言っているように感じなかったからに他なりません。
私の内部で同調するものがあったからなのですが、それは私自身あの体験のずっと前から内心感じていたことでもあったのです。
彼にはそういうものが感知されたのですが、又神への怖れ、罪の意識も感じられ、それが進一歩を躊躇っているように感じられました。(その後のことは久しく会ってないので分かりません)
体験というものを特別視し、それ自体に囚われると、この内奥に息づくものに中々気づくことが出来ません。
ああいうことが無いと愛、平安に与ることが出来ない...そんなことありません。
私はずっと感じていました。今でも...ですi いつだって体感出来ることなのです。
体験も無いよりはあった方がいいのかもしれませんが、もしそれが一時の爆発的発出にすぎず、そのまま消え去ってしまうものなら、いつも私の命の源に触れて、安らかでいられる方がどれだけ有難いことかと正直思います。
それは、普段当たり前に思っている幸福に意識的になってみる...広い意味での祈りを通じて実感されてくるでしょう...。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 覚醒の原点 | トップ | 意識的な祈り »

コメントを投稿

覚醒」カテゴリの最新記事