悟りや覚醒の道においては、神といったものについて触れているうちは、中途の段階であり、そういうものは越えて行かなければならないという向きがあります。
私はまだそんな境地に“達したことなどない“ので、達観したことなど言えないのですが、そういう人たちは一体どうしてそんな境地に達することが出来たのか、私には全く理解出来ないのです。
その神というものが、想像上のある実体を思い描いているものならばいざ知らず、考えている人間が自らその悟りの条件とも言える、思考から離れることなど不可能なはずですよ。
そのために瞑想修行などがある、とか言うのでしょうが、それでその越えせしめるもの、自己を超えたものそのものにつながるかどうかは分からないのです。
こういう観方、感じ方には私は、自分の意志想念、努力によってそういう境地を目指し、達しようとする思念に囚われているのをどうしても感じてなりません。
そもそも、古くから禅の師家なども説いているように、そういうものは断念されねばならないものなのではないですか?
私が初めて精神的目覚めらしきものに与ったのは、全く予期していない、思いがけないことで、勿論その境地に達しようなんて気持ちなど全然無かったし、又、その神的なものにそのことを祈っていた訳でもありませんでした。
ただ、その神的な現臨が予期せずに臨み、それが私のすべてを覆い、浸透するに任せるより無かったのです。
しかし、それはおそらく中途の段階だったのでしょう?...数日の内にその感じは消え去り、元の黙阿弥になってしまったのでした。
で、そっからは、それがあまりにも素晴らしく幸福なことだったので、そうです!...その境地を目指し、達しようとしたこともありました。
しかし、それで一度たりともそんな境地に達したことは無いのです。だから自分で達することは出来ないことを“悟らなければ“ならないのです!
又、その至福の状態に囚われることからも“解脱“する必要があるでしょう。
要するに体験、境地に囚われていてはならないということ!...それは、そうならしむるものあってのものだ、ということにならないでしょうか?
現実にそうなんだから仕方が無い!...その後も何度かそういうことになったりしましたが、そこには必ず神的な現臨が伴っているのです。これは祈り、それに意識を向けることで呼び覚まされるということはあるのですよ。
だから私には、神的なハタラキ無しに悟りや目覚めがあるなんてことは考えられないことなのです。
それは、人間は本来一個なる自分が生きているのでなく、それを超えたものとのつながりにおいて生きている、それが本来の在り方ということを意味しているのでしょう。
何より自然にそう思え、感じて来るし、そこに落ち着かざるを得ないではありませんか!?...
私はまだそんな境地に“達したことなどない“ので、達観したことなど言えないのですが、そういう人たちは一体どうしてそんな境地に達することが出来たのか、私には全く理解出来ないのです。
その神というものが、想像上のある実体を思い描いているものならばいざ知らず、考えている人間が自らその悟りの条件とも言える、思考から離れることなど不可能なはずですよ。
そのために瞑想修行などがある、とか言うのでしょうが、それでその越えせしめるもの、自己を超えたものそのものにつながるかどうかは分からないのです。
こういう観方、感じ方には私は、自分の意志想念、努力によってそういう境地を目指し、達しようとする思念に囚われているのをどうしても感じてなりません。
そもそも、古くから禅の師家なども説いているように、そういうものは断念されねばならないものなのではないですか?
私が初めて精神的目覚めらしきものに与ったのは、全く予期していない、思いがけないことで、勿論その境地に達しようなんて気持ちなど全然無かったし、又、その神的なものにそのことを祈っていた訳でもありませんでした。
ただ、その神的な現臨が予期せずに臨み、それが私のすべてを覆い、浸透するに任せるより無かったのです。
しかし、それはおそらく中途の段階だったのでしょう?...数日の内にその感じは消え去り、元の黙阿弥になってしまったのでした。
で、そっからは、それがあまりにも素晴らしく幸福なことだったので、そうです!...その境地を目指し、達しようとしたこともありました。
しかし、それで一度たりともそんな境地に達したことは無いのです。だから自分で達することは出来ないことを“悟らなければ“ならないのです!
又、その至福の状態に囚われることからも“解脱“する必要があるでしょう。
要するに体験、境地に囚われていてはならないということ!...それは、そうならしむるものあってのものだ、ということにならないでしょうか?
現実にそうなんだから仕方が無い!...その後も何度かそういうことになったりしましたが、そこには必ず神的な現臨が伴っているのです。これは祈り、それに意識を向けることで呼び覚まされるということはあるのですよ。
だから私には、神的なハタラキ無しに悟りや目覚めがあるなんてことは考えられないことなのです。
それは、人間は本来一個なる自分が生きているのでなく、それを超えたものとのつながりにおいて生きている、それが本来の在り方ということを意味しているのでしょう。
何より自然にそう思え、感じて来るし、そこに落ち着かざるを得ないではありませんか!?...
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます