人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ハート、神、愛

2021-12-02 10:04:35 | 求道、探究
ラマナ.マハルシは、人間の本来性、真我の源は、ハートにあると言いました。
多くの瞑想実修者は、"頭頂"にこそ、そうしたものを求められるとされていますが、どっちが本当なんでしょうか?
分かりませんi...アタシャ、そういう者でないので...
こういう話になると、所謂チャクラと結び付けられるものですが、ラマナは、ハートは特定の部位に限定されるものではない、と言っているのです。
それでいて、それは、胸の中心から右に指二本ばかしずらしたところだ、なんて説明もあったりするから、ヤヤコシイi、分からんi
これは、どうも瞑想実修者用に合わせた説明のようです。
「神、意識の座、皆同じことである。理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心であること、それなしには何も存在しないということである」(ラマナ.マハルシ)
ハートは、相対を超えたものだということです。しかし、何故、特にハートと呼ばれるのでしょうか?...胸に手を当てて考え、いや意識してみようi
すると自ずから、意識がある中心に収斂されてゆくのが感じられます。それと共に安らぎが、そして愛が...胸がきゅん、と。
身体的なレベルで胸にそういうものが感覚されるという訳じゃなく、全身全心全霊が中心に集められてゆくように感じられます。
これがラマナの言われる、ハートのことなのかどうかは分かりません。
しかし、ここ数年それまでよりも増して、この特定のどっかのことでなく、さりとてどこでもいい、というものでもない、ある中心に引き込まれるような感じは覚えられるようになりました。
これが実に前回にも触れた、絶対界と相対界の接触点となるものではないでしょうか?
これは対象を超えた、本来的な愛というものが感じられるようになったことと付節が合わされているようです。
そして、究極の悟りみたいな境地を追い求めるような気持ちも薄れて行きました。
そういうものは、主我的な思いから来る、ということは分かっていて、どうしても離れなかったものが、自然とどうでもよくなってしまったのです。
主我的な思いはハートのうちに落ちて行く...そこにしか落ちどころは無かったかもしれないi...真我の目覚めということに思いを向ける必要もない...自我も真我もない、すべての私の本来性に帰る...
ラマナは、インドの伝統的な教えを背景に持っていたためか、あまり愛というものには言及しておりません。しかし、このハートについての教えは広く普遍的に受け入れられるものがあると確信しています。
という訳で、私には愛そのものと、神、ハートは切り離されないものとなりました...。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 見えないものとの接触点 | トップ | ラマナ.マハルシ「あるがまま... »

コメントを投稿

求道、探究」カテゴリの最新記事