インフルの方は今のところ落ち着いて来ていて、といっても完全に抜けたという感じにもならず、小康状態が続いているのです。(“とんぷく“効かないぞ!)
何だか今月に入って、ずっとそういう状態になっているようなのです。
“抜けた“状態というのは、具体的な感覚のことを指していまして、“ぶ~ん“という、あの鈍重な耳鳴りが抜けることを言っているのです。
これのために、あの“き~ん“という、現臨感の兆候も閉ざされて...な~んて、一時そんな状態になったこともありましたが、同時に聞こえる感じになっていて、そういう小康状態が続いているということなのです。何にしても“き~ん“が失われないことは大きいことです。
それが、あの“御方“の通られる通路の開かれる印なのだから!
そこから“愛、平安“がもたらされるに他ならないのです。
これは、いつも言っているように、具体的なことを言い表しているのです。
それは、具体的に感じなければ分からないでしょう。ハイ、ヤボなこと言ってますね?
それにはね、神を信じなければならないのですよ!、ってそんなヤボなことは言いません!
そういう信じる、思い描く、イメージする、念じる、といった自分の思いを立てるようなことではないのです。
例えば、“愛、安らぎ“を感じていないのに、神を信じよう、受け入れようとしたってしょうがないではありませんか?...(惰性ばっかしの神信仰多いのお!)
そんなデキアイの信仰ごとでなく、神のことを持ち出さなくとも(それは私の話)人それぞれ愛している、愛してやまない、惹かれてやまないものってあるのではありませんか?
好きな人、ペット、マスコット?(乃木坂の“るなぴ“に聞け!)...いくら何でもそんなものがなんだ!、と思う人もいるかもしれない...だけど対象は何であれ、おカタイ人間が何と言おうと、自分がどれだけその愛を感じているかどうかが肝心なことなのです!
私は言おう!...対象は何であれ、“あなたにとって最愛のものこそは、あなたの神ではないか“、と!...これ、デキアイの信者どもには絶対に分からないことでしょう!
そう、ここでは具体的な対象となるもののことを言っています。
重要なことで、無常なことですが、その対象は、愛の媒体となるものですが、ずっとそういう対象であるとは限らないということ、愛が感じられなくなることもある、ということなのです。(愛無き変質した有り様は、執着というものでしょう?)
別のものに対象が移るかもしれないのです。しかし、それは何であれ、愛を感じているあなたは居るということなのでしょう?
これが愛というものの本質なのです。愛を感じているあなた無しにそれはあり得ないのです。当たり前すぎる話だと思いますが...
で、私がいつも言っている神、神的なものと言うのは、対象の無いもののことを言っているのです。“モノ“では無い!
無くなるとか、他のものに移るということも無いのです。対象が無いということは、それだけ感じている自分との二元性は超えられる、一体感があるということなのです。
この感じ...対象があろうと無かろうと、最愛のものを感じている人には分かるのではありませんか!
そこで、その感覚そのものを意識してみるのです。感じてみるのです。
対象の無い愛、愛そのもののことが分かって来る...かもしれない?
又、対象が何であれ、その媒体に体する感じ方、接し方もきっともっと深く、変わったものとなることでしょう?
対象があっても、そのベースとなるものは、この分割出来ない、分離出来ない、“愛そのもの“にあるのです。
そうなると...私が最近よく言う、“神、真我しか無い“ように感じられて来る...かもしれない?
これ、神や真我の実体論みたいなことを言っているのではありません。
あなたが最愛のものと共にある時、そのように感じざるを得なくなるのではありませんか?!...
何だか今月に入って、ずっとそういう状態になっているようなのです。
“抜けた“状態というのは、具体的な感覚のことを指していまして、“ぶ~ん“という、あの鈍重な耳鳴りが抜けることを言っているのです。
これのために、あの“き~ん“という、現臨感の兆候も閉ざされて...な~んて、一時そんな状態になったこともありましたが、同時に聞こえる感じになっていて、そういう小康状態が続いているということなのです。何にしても“き~ん“が失われないことは大きいことです。
それが、あの“御方“の通られる通路の開かれる印なのだから!
そこから“愛、平安“がもたらされるに他ならないのです。
これは、いつも言っているように、具体的なことを言い表しているのです。
それは、具体的に感じなければ分からないでしょう。ハイ、ヤボなこと言ってますね?
それにはね、神を信じなければならないのですよ!、ってそんなヤボなことは言いません!
そういう信じる、思い描く、イメージする、念じる、といった自分の思いを立てるようなことではないのです。
例えば、“愛、安らぎ“を感じていないのに、神を信じよう、受け入れようとしたってしょうがないではありませんか?...(惰性ばっかしの神信仰多いのお!)
そんなデキアイの信仰ごとでなく、神のことを持ち出さなくとも(それは私の話)人それぞれ愛している、愛してやまない、惹かれてやまないものってあるのではありませんか?
好きな人、ペット、マスコット?(乃木坂の“るなぴ“に聞け!)...いくら何でもそんなものがなんだ!、と思う人もいるかもしれない...だけど対象は何であれ、おカタイ人間が何と言おうと、自分がどれだけその愛を感じているかどうかが肝心なことなのです!
私は言おう!...対象は何であれ、“あなたにとって最愛のものこそは、あなたの神ではないか“、と!...これ、デキアイの信者どもには絶対に分からないことでしょう!
そう、ここでは具体的な対象となるもののことを言っています。
重要なことで、無常なことですが、その対象は、愛の媒体となるものですが、ずっとそういう対象であるとは限らないということ、愛が感じられなくなることもある、ということなのです。(愛無き変質した有り様は、執着というものでしょう?)
別のものに対象が移るかもしれないのです。しかし、それは何であれ、愛を感じているあなたは居るということなのでしょう?
これが愛というものの本質なのです。愛を感じているあなた無しにそれはあり得ないのです。当たり前すぎる話だと思いますが...
で、私がいつも言っている神、神的なものと言うのは、対象の無いもののことを言っているのです。“モノ“では無い!
無くなるとか、他のものに移るということも無いのです。対象が無いということは、それだけ感じている自分との二元性は超えられる、一体感があるということなのです。
この感じ...対象があろうと無かろうと、最愛のものを感じている人には分かるのではありませんか!
そこで、その感覚そのものを意識してみるのです。感じてみるのです。
対象の無い愛、愛そのもののことが分かって来る...かもしれない?
又、対象が何であれ、その媒体に体する感じ方、接し方もきっともっと深く、変わったものとなることでしょう?
対象があっても、そのベースとなるものは、この分割出来ない、分離出来ない、“愛そのもの“にあるのです。
そうなると...私が最近よく言う、“神、真我しか無い“ように感じられて来る...かもしれない?
これ、神や真我の実体論みたいなことを言っているのではありません。
あなたが最愛のものと共にある時、そのように感じざるを得なくなるのではありませんか?!...
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