私は幼少の頃、複雑な家庭の中で育ったことで、豊かな家族愛を受けて来なかったということもあり、とても人生で愛に恵まれた、とは言えないようです。
しかし...これは形容的に言うのでなく、見えない、思いを超えた恩愛というものを感じない日は無いくらいなのです!
それを聞いて、奇異に感じる人も多いでしょう。“よほどこの人は想像力が豊かなんだな!“と思う人も居るかもしれません。そう思わせて、言わせておけばよい!
考えてもみられよ!、家族愛でも恋愛でもそれらは失われたり、憎しみに変わったりするものでしょう。
しかし、この愛というものは、一度も失われたことも、変質することも無く、益々深く、豊かになっていくんですよ!...だから“恩愛“と言わずにおれないのです!
“愛は不滅!“と、歌の世界などでは盛んに歌われたりしますが...
世の中では、そのように変質してしまったり、別な要素と結びついてその”本来性”を失っているものも愛と呼ばれたりしています。
例えば恋愛と結びつくのは性愛です。愛など無くてもそう呼ばれてます。
“本当の愛と性愛とはどう違うのか?“とある人に訊かれた時、私は明確に、”事が済んだ時に泡のように消えてしまうか、ずっとその愛を感じているか(その時失ったりして?)どうかだ!“と答えました。
その他、イデオロギー的なものと結びつく愛国、愛国精神、言葉は知ってるが私など一度も感じたことの無い愛社精神...世の中愛でないものが多すぎる!
混じりけの無い、愛そのもの、即ち実存的な愛は、この世では見い出されるべくも無いのだろうか?...
強いて、この本来的な愛に世で呼び慣わされているもので近いものを挙げるとしたら...それは母の愛かもしれません。
戦中、特攻隊員などが死を前にして出される言葉でもっとも多かったのは、“かあちゃん!“、というものだと言います。(“とおちゃん“では無いのですよ!、どうする?、オヤジ!)
私の場合もそうなるかもしれませんが、私は神的な愛というものを知ってしまったのです!...やっぱり?
何だかんだ言っても、私は母からの愛は受けていたのは間違いないのですが...しかし幼い頃のことであったりして、それが具体的にどういうものかは思い出せない、分からないのです。
ただ、どっかでずっと大人になってから受けた、その神的な愛と重ねられている感じもしているのです。
あるいは、まだ物心付かない時、母の愛と同時に、それを通してその本来的な愛を受けていたのかもしれません。
いや、確かに後に始めてそれに与った時、内奥に隠れていた、そうしたものが呼び覚まされたのです。
いずれにしても、それは愛そのもの...そのものは分けることが出来ません。
そしてこの本来的な愛は、親子であれ、異性とのものであれ、この世的な愛の在り方のベースとなり得るものです。それが最愛のものであるほど息づいていたものになるでしょう。
本来的とはそういうものなのです。そして本当に最愛なるものとは、それと切り離されるものではありません!
たとえ、世界が終わったとしても、この愛は失われることは無いだろう!
いやそれは、この世界が終わって始めて目の当たりにするものなのだろうか?...
しかし...これは形容的に言うのでなく、見えない、思いを超えた恩愛というものを感じない日は無いくらいなのです!
それを聞いて、奇異に感じる人も多いでしょう。“よほどこの人は想像力が豊かなんだな!“と思う人も居るかもしれません。そう思わせて、言わせておけばよい!
考えてもみられよ!、家族愛でも恋愛でもそれらは失われたり、憎しみに変わったりするものでしょう。
しかし、この愛というものは、一度も失われたことも、変質することも無く、益々深く、豊かになっていくんですよ!...だから“恩愛“と言わずにおれないのです!
“愛は不滅!“と、歌の世界などでは盛んに歌われたりしますが...
世の中では、そのように変質してしまったり、別な要素と結びついてその”本来性”を失っているものも愛と呼ばれたりしています。
例えば恋愛と結びつくのは性愛です。愛など無くてもそう呼ばれてます。
“本当の愛と性愛とはどう違うのか?“とある人に訊かれた時、私は明確に、”事が済んだ時に泡のように消えてしまうか、ずっとその愛を感じているか(その時失ったりして?)どうかだ!“と答えました。
その他、イデオロギー的なものと結びつく愛国、愛国精神、言葉は知ってるが私など一度も感じたことの無い愛社精神...世の中愛でないものが多すぎる!
混じりけの無い、愛そのもの、即ち実存的な愛は、この世では見い出されるべくも無いのだろうか?...
強いて、この本来的な愛に世で呼び慣わされているもので近いものを挙げるとしたら...それは母の愛かもしれません。
戦中、特攻隊員などが死を前にして出される言葉でもっとも多かったのは、“かあちゃん!“、というものだと言います。(“とおちゃん“では無いのですよ!、どうする?、オヤジ!)
私の場合もそうなるかもしれませんが、私は神的な愛というものを知ってしまったのです!...やっぱり?
何だかんだ言っても、私は母からの愛は受けていたのは間違いないのですが...しかし幼い頃のことであったりして、それが具体的にどういうものかは思い出せない、分からないのです。
ただ、どっかでずっと大人になってから受けた、その神的な愛と重ねられている感じもしているのです。
あるいは、まだ物心付かない時、母の愛と同時に、それを通してその本来的な愛を受けていたのかもしれません。
いや、確かに後に始めてそれに与った時、内奥に隠れていた、そうしたものが呼び覚まされたのです。
いずれにしても、それは愛そのもの...そのものは分けることが出来ません。
そしてこの本来的な愛は、親子であれ、異性とのものであれ、この世的な愛の在り方のベースとなり得るものです。それが最愛のものであるほど息づいていたものになるでしょう。
本来的とはそういうものなのです。そして本当に最愛なるものとは、それと切り離されるものではありません!
たとえ、世界が終わったとしても、この愛は失われることは無いだろう!
いやそれは、この世界が終わって始めて目の当たりにするものなのだろうか?...
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