「祈りとは願い事では無い。神との交わりである。」
(サンダー・シング)
私には精神的な道を探究し始めた当初から、祈りと瞑想は二つ別々のものでないという認識が有りました。
それがどこから来るかと言うと、初期の頃関わっていた、五井先生が提唱された世界平和の祈りは、教団の行事として行われる時は、ほとんど「統一行」というある種の観行、瞑想とセットで行われていたというところから、のようです。
私は白光会へ行ってる時以外、そんなに熱心にその祈りや統一をしていた訳ではありませんでした。
祈りと言ってもほとんど我流で「御心のままに導き給え」といった心持ちで祈っていたものです。
そんな中で、出会ったのがサンダー・シングの本でした。
それは私がキリスト教関係のもので、まとまった形で読んだ初めてのものでした。
サンダー・シングは戦前来日したことも有るという、インドのキリスト教の神秘家で、スエーデンボルグを彷彿とさせるような入神、見霊体験も伝えられていますが、私には「ターバンをまとった祈りと瞑想の人」という印象です。
彼は言う「祈りとは呼吸である。人は食べなければ生きていけないように、祈り無しでどうして生きていけよう…」
ここでは祈りというものはもう、何をどう祈るとか、祈りの文句は…などと言うこと以前の、我々が活きる上での大前提として捉えられています。
ところが彼の語る祈りとは「静かに神の訪れを待ち、交わり、語らう…」というほとんど瞑想と区別の付かないものなのです。
真に宗教、精神的な道では祈りと瞑想というものは、有り様はそれぞれながら不可欠のものです。
日本仏教では御存じのように、祈りは浄土系仏教、瞑想は禅仏教がそれぞれ対応しながら発展してきました。
これを前者は他力、後者は自力と対応する事も出来ます。
しかし、前述したようにこのように区別など出来るものなのでしょうか?
この点について、仏教学者の玉城康四郎先生は「ブッダにまで遡ってみると、念仏と禅定の二つが一つになっているのではない、もともと一つである。」
と根源に立ち返ったところでの理解を促しておられました。
ちなみに念仏と我々が理解しているものは、あくまで称名念仏のことであり、法然や親鸞が鎌倉時代に普及させた念仏の一つの形であり、本来は文字通り、阿弥陀如来などの仏の姿、浄土世界を憶念するもの(幾分イメージ瞑想に近いものと拝察される)で、瞑想と一体のものである、と指摘しておきます。
自力という事についても、道元などが強調したのは、「念仏してるからもう、救われているんだ、何をやってもいいんだ」という当時の浄土系仏教者の安易な、
堕落した生き方への反発からだった、ということも知っておく必要が有ります。
玉城先生もどっかで言っておられたように、道元の言う「万法に証せられる…」とか「心身脱落、脱落心身」などという境地は形なき命、ダンマの裏打ちを物語っていると思います。
私は常々この自力というのは、自分の力というもので無しに、「おのづからなる力」と捉えたくなります。
自分の力からは、このような自分を超えた領域には導かれ得ないと思われます。
いかがなものでしょうか?
祈りと瞑想、意識が我々を包み、導く恩寵の光に向けられる時、そこにおのづと祈り的意識状態が生まれます。
又我々の内面に意識が向けられ、内側から立ち上る息吹を感じていると瞑想的意識状態が生まれます。
ここには微妙な意識の異なった流れが有るのみで、厳密な区別などありません。
やがて、そこには全く区別のつかないサムシングが顕れます。
内も外も、自分も世界も無い…一なるものです。
(サンダー・シング)
私には精神的な道を探究し始めた当初から、祈りと瞑想は二つ別々のものでないという認識が有りました。
それがどこから来るかと言うと、初期の頃関わっていた、五井先生が提唱された世界平和の祈りは、教団の行事として行われる時は、ほとんど「統一行」というある種の観行、瞑想とセットで行われていたというところから、のようです。
私は白光会へ行ってる時以外、そんなに熱心にその祈りや統一をしていた訳ではありませんでした。
祈りと言ってもほとんど我流で「御心のままに導き給え」といった心持ちで祈っていたものです。
そんな中で、出会ったのがサンダー・シングの本でした。
それは私がキリスト教関係のもので、まとまった形で読んだ初めてのものでした。
サンダー・シングは戦前来日したことも有るという、インドのキリスト教の神秘家で、スエーデンボルグを彷彿とさせるような入神、見霊体験も伝えられていますが、私には「ターバンをまとった祈りと瞑想の人」という印象です。
彼は言う「祈りとは呼吸である。人は食べなければ生きていけないように、祈り無しでどうして生きていけよう…」
ここでは祈りというものはもう、何をどう祈るとか、祈りの文句は…などと言うこと以前の、我々が活きる上での大前提として捉えられています。
ところが彼の語る祈りとは「静かに神の訪れを待ち、交わり、語らう…」というほとんど瞑想と区別の付かないものなのです。
真に宗教、精神的な道では祈りと瞑想というものは、有り様はそれぞれながら不可欠のものです。
日本仏教では御存じのように、祈りは浄土系仏教、瞑想は禅仏教がそれぞれ対応しながら発展してきました。
これを前者は他力、後者は自力と対応する事も出来ます。
しかし、前述したようにこのように区別など出来るものなのでしょうか?
この点について、仏教学者の玉城康四郎先生は「ブッダにまで遡ってみると、念仏と禅定の二つが一つになっているのではない、もともと一つである。」
と根源に立ち返ったところでの理解を促しておられました。
ちなみに念仏と我々が理解しているものは、あくまで称名念仏のことであり、法然や親鸞が鎌倉時代に普及させた念仏の一つの形であり、本来は文字通り、阿弥陀如来などの仏の姿、浄土世界を憶念するもの(幾分イメージ瞑想に近いものと拝察される)で、瞑想と一体のものである、と指摘しておきます。
自力という事についても、道元などが強調したのは、「念仏してるからもう、救われているんだ、何をやってもいいんだ」という当時の浄土系仏教者の安易な、
堕落した生き方への反発からだった、ということも知っておく必要が有ります。
玉城先生もどっかで言っておられたように、道元の言う「万法に証せられる…」とか「心身脱落、脱落心身」などという境地は形なき命、ダンマの裏打ちを物語っていると思います。
私は常々この自力というのは、自分の力というもので無しに、「おのづからなる力」と捉えたくなります。
自分の力からは、このような自分を超えた領域には導かれ得ないと思われます。
いかがなものでしょうか?
祈りと瞑想、意識が我々を包み、導く恩寵の光に向けられる時、そこにおのづと祈り的意識状態が生まれます。
又我々の内面に意識が向けられ、内側から立ち上る息吹を感じていると瞑想的意識状態が生まれます。
ここには微妙な意識の異なった流れが有るのみで、厳密な区別などありません。
やがて、そこには全く区別のつかないサムシングが顕れます。
内も外も、自分も世界も無い…一なるものです。
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