人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と共にあること

2014-12-30 22:09:03 | 
他人事みたいで恐縮ですが…世の中世知辛い為か、悩みを抱えている人が多いですね。
当然のことながら、精神世界系の交わりにはどうしたって悩みを訴える声に接します。
その中でも人間関係にまつわることが圧倒的に多いですね。
お話を聞いてると「そんなに悩まなきゃならないかなあ?」と思う事も最近は多々ありますが、まあ、人様の苦労のこと、私のあずかり知らないことです…。
そういう人たちにとって、多分当ブログはほとんどお役に立たないんじゃないかな? などといつも書きながら思っています。
何故って…悩み解決の方法、こうすれば、上手くいくといった、明確な道しるべのようなものはほとんど提示してないからです。
その理由の一つは、そういう悩みの解決に答えてくれるであろうお役目の方は探せば沢山おられるだろう、ということです。
私なんぞ、凡そそういうニーズにお応えできるような、順風満帆とは程遠い人生を送ってきましたもので、気まぐれに自分の好きなように、好きな事を書いてるだけなのです。
それに私も人並みに悩み事も数々有りましたが、ある人が示すその解決法に従って見事悩みをクリヤーした、という経験は全く記憶に無いのです。
この事に関して私がずっと経験してきたことと言えば…
神に意識を向けてたら、勝手に悩みが私から離れて行くという事です。
祈りとか瞑想のことを書きましたけど、つまりはこういうところに導かれんがため、と言うか…それをしようとしなくたってそうなっちゃう…
(あ、またしてもこうして、ああしてという手順がスルーした…)
何もここでは、瞑想の深い境地だとか、覚醒とかワンネス体験の事など書くつもりはありません。
神に意識を向けてたら、有難い気持ちになって、意識も昂揚して来て「一体僕は何を悩んでいたのだろう?」と言う具合になるのです。
これは神の臨在感というか、神(勿論どのように呼んでもいいです)と共にあるといった感覚です。
私の場合、そういう経験を通じてどっかにある種の回路が出来てるようで、感覚的に覚えているのでフリーパスのようにそうなるのです。
身に覚えると言ってますけど…
悩みにある時、人は今不幸なので、幸福になりたいと当然思う訳ですね。
そしてこうなりさえしたら幸福になれると…
(これはスピ系人生相談ではおなじみですが)幸福、不幸とはそもなんでしょうか…?
自分が幸福と感じる、不幸と感じるという事以外の何物でもありません!
世間の人がいくら「あなたは不幸ですね」と言おうが、「いいじゃないの、自分が幸せならば!」
もし世の人が私の人生を概観したら、おそらく幸福な事など唯の一度も無かったように映るかも知れません。
そんな人間が「こうすれば悩みは消えます」とか「幸福になります」なんて言ったって説得力ゼロでしょ!
でも神の臨在感にある時、状況はどうあれ私は幸福でいられるのです。
世の人には理解出来ない事でしょう…人生の表側しか知らないから…。
そして神、大いなる命、サムシング…名称はどうあれ、意識がこのものから切り離されたら、本当の幸福を見出すことは出来ないでしょう。
個人の問題のみならず、今世界が人類が抱えている問題の数々、それはどこに起因しているのか?…これも自明のことです。
個々の平安も世界平和も、我々の意識が神と結びつくということを離れては生まれないのです。
しかしながら多くの人は、いかに神仏を、この世的な成功、世間的幸福、世界平和の実現等々のことに知らず知らず利用して来たことでしょう。
その実現の目的に捉われるや否や、臨在感そのものから意識が離れてしまうにも関わらず…
これは何もご利益宗教の事ばかり言っているのではありません。
日ごとの修行、信仰生活、奉仕活動、さらには悟り、神秘体験といったものですら、それ自体が目的となった時、こうした誘惑から免れえないでしょう。
意識が今ここにあることから外に向けられ、客体化、対象化してしまうのです。
そりゃあ、世の中色々あって神と共にあることから離れたり、それを忘れてしまう事も有ります。
でも何を悩んでいたのか…忘れてしまう様な経験は忘れられません。
いや、人生における全てはここから離れる事はあり得ません。
何故ならば、生きることは命と共にあることなのですから…。




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