霊なるもの、霊的なものといっても、一口で言い表せるものではありません。
通俗的には、霊的と言えば、見えないものが見えるという心霊現象などと結びつき、そういうものを感受出来る霊感を有した人間を霊的な人と言ったりします。
それは、本来、人の思いを超えたもので、言葉の概念では分からないもののはずなのです。
つまり私はいつも霊的なことを書いているのですよ。言葉で分かったようなことを言う、心霊的なことにはほとんど触れないのですが...
私的には、その何か霊的なものが臨在する感じ...それは、何よりも思いを超えたものに与っているということで、そういう自分の力を超えたハタラキがある...これほど霊なる事態を言い表すものは無いというくらいなのです。そこにはアリアリとした実在感があるのだが、その実体は分からない!
これには、ほとんどの場合、こちら側が意識的になっている、されていることと関係していると言ってもいいのです。
一方では、古来から神域、霊域とされている神社などを訪れると、霊気のようなものを肌で感じたり、時には(私も数度経験しているが、滅多に無いことです)先の神的な現臨を感受することもあるのです。
これは、こちらの意識状態とは関係無しに、その土地(そればかりとは限らないが)固有の霊なるハタラキによってもたらされるものでしょう。
それは、イスラム教では、”ジン”として、忌み嫌われ、概して聖書の宗教では、低次の霊としてあまり関わりたがらない、”自然霊”といったものなのでしょうか?
これについて、我々日本人は、彼ら砂漠の民と違い、自然、大地に恵まれ、共生することを重んじて来たので、あたかも邪神のように忌み嫌う道理など無いと言わねばなりません。(然るに、欧米のキリスト教などに迎合して、そんな不遜な信仰態度を取る、日本のデモ.クリスチャンなど、前の都知事じゃないけど、”キサマはどこの国の人間なんなんだ!”、と言いたくもなりますよ!)
元より自然霊というものも、霊なるハタラキの一つと言えるでしょう。
このように、我々の霊なるものの観方、感じ方には、いくつか異なるものがあるようです。
ウィキによれば、古来、ヘブライ語で霊のことを”ルーアッハ”と呼び、それは包括的には、気、生命、風、息などの意味があるとのことで、正に自然霊などはその表れと言えます。
これが、新約時代に入り、ギリシア語で同じような意味で、”プネウマ”と訳されるようになったのですが、これがやがて”聖霊”を意味するように転化していったとのことです。
聖霊とは、高次の聖なる霊であり、”精霊”とか自然霊などの低級霊とは区別されなければならない?、だから神道などは低級な宗教なのか?
いや、そうじゃないでしょう。霊とは本来、気、生命と結びつくように、それ自体、善悪、高低などの相対性は持たないものでしょう。それ自体は悪いものでも、低級なものでも無いのです。
ただし、それは本来性を失い、変質してしまうことにより、所謂低級霊、邪霊的なものになる可能性もある...つまり私は最初から聖霊とか邪霊だとかが存在していた訳ではないと思っているのです(ホントのところは分からないのですが)
霊なるものは、あくまでニュートラルなもので、それが我々の心的、意識状態に応じて種々相を表すのではないか、と。...
この原初的な霊性も、そりゃ、そう呼ばれているようにスピリチュアルなものに違いないでしょう。しかし、キリスト教的欧米などでは、狭義にその聖霊的なものに関してそう呼ばれているようです。
それは、日本人として私は...首肯出来ます!
それは、包括的、自他未分的な段階の霊性よりも、もっとこの自己の自覚と共に、実存に即し、我々の精神と切り離されない、霊的な在り方を示すものと言えるでしょう。精神とは英語でスピリットというが如くです。(だから、欧米の実存主義の派生は、近代的キリスト教の発展と無関係では無いのです)
その霊性の道も、肝心な霊なるもの、霊的ハタラキが観念化、形骸化して枯渇しては何にもなりません。それは神的なものから来る!...祈りを通してハタラキたもう!
広義のものでも狭義のものでも生命の事態に関わることには変わりありません。ただ神的な現臨に与ることは、より深く霊なるものと関わることであり、それは意識的になることで開かれることは言うまでもありません。
通俗的には、霊的と言えば、見えないものが見えるという心霊現象などと結びつき、そういうものを感受出来る霊感を有した人間を霊的な人と言ったりします。
それは、本来、人の思いを超えたもので、言葉の概念では分からないもののはずなのです。
つまり私はいつも霊的なことを書いているのですよ。言葉で分かったようなことを言う、心霊的なことにはほとんど触れないのですが...
私的には、その何か霊的なものが臨在する感じ...それは、何よりも思いを超えたものに与っているということで、そういう自分の力を超えたハタラキがある...これほど霊なる事態を言い表すものは無いというくらいなのです。そこにはアリアリとした実在感があるのだが、その実体は分からない!
これには、ほとんどの場合、こちら側が意識的になっている、されていることと関係していると言ってもいいのです。
一方では、古来から神域、霊域とされている神社などを訪れると、霊気のようなものを肌で感じたり、時には(私も数度経験しているが、滅多に無いことです)先の神的な現臨を感受することもあるのです。
これは、こちらの意識状態とは関係無しに、その土地(そればかりとは限らないが)固有の霊なるハタラキによってもたらされるものでしょう。
それは、イスラム教では、”ジン”として、忌み嫌われ、概して聖書の宗教では、低次の霊としてあまり関わりたがらない、”自然霊”といったものなのでしょうか?
これについて、我々日本人は、彼ら砂漠の民と違い、自然、大地に恵まれ、共生することを重んじて来たので、あたかも邪神のように忌み嫌う道理など無いと言わねばなりません。(然るに、欧米のキリスト教などに迎合して、そんな不遜な信仰態度を取る、日本のデモ.クリスチャンなど、前の都知事じゃないけど、”キサマはどこの国の人間なんなんだ!”、と言いたくもなりますよ!)
元より自然霊というものも、霊なるハタラキの一つと言えるでしょう。
このように、我々の霊なるものの観方、感じ方には、いくつか異なるものがあるようです。
ウィキによれば、古来、ヘブライ語で霊のことを”ルーアッハ”と呼び、それは包括的には、気、生命、風、息などの意味があるとのことで、正に自然霊などはその表れと言えます。
これが、新約時代に入り、ギリシア語で同じような意味で、”プネウマ”と訳されるようになったのですが、これがやがて”聖霊”を意味するように転化していったとのことです。
聖霊とは、高次の聖なる霊であり、”精霊”とか自然霊などの低級霊とは区別されなければならない?、だから神道などは低級な宗教なのか?
いや、そうじゃないでしょう。霊とは本来、気、生命と結びつくように、それ自体、善悪、高低などの相対性は持たないものでしょう。それ自体は悪いものでも、低級なものでも無いのです。
ただし、それは本来性を失い、変質してしまうことにより、所謂低級霊、邪霊的なものになる可能性もある...つまり私は最初から聖霊とか邪霊だとかが存在していた訳ではないと思っているのです(ホントのところは分からないのですが)
霊なるものは、あくまでニュートラルなもので、それが我々の心的、意識状態に応じて種々相を表すのではないか、と。...
この原初的な霊性も、そりゃ、そう呼ばれているようにスピリチュアルなものに違いないでしょう。しかし、キリスト教的欧米などでは、狭義にその聖霊的なものに関してそう呼ばれているようです。
それは、日本人として私は...首肯出来ます!
それは、包括的、自他未分的な段階の霊性よりも、もっとこの自己の自覚と共に、実存に即し、我々の精神と切り離されない、霊的な在り方を示すものと言えるでしょう。精神とは英語でスピリットというが如くです。(だから、欧米の実存主義の派生は、近代的キリスト教の発展と無関係では無いのです)
その霊性の道も、肝心な霊なるもの、霊的ハタラキが観念化、形骸化して枯渇しては何にもなりません。それは神的なものから来る!...祈りを通してハタラキたもう!
広義のものでも狭義のものでも生命の事態に関わることには変わりありません。ただ神的な現臨に与ることは、より深く霊なるものと関わることであり、それは意識的になることで開かれることは言うまでもありません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます