人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個己から超己へ

2024-10-20 10:13:30 | 求道、探究
ラマナ.マハルシがよくこんな例え話をしていましだ、
船に10人乗っていて、ある人が”一人二人...”と人数を数えていたのですが、9人しか居ない、と言う...そう、自分自身を数えていなかったというオチです。
こういう笑い話のようなことを多くの人がやっているのではありませんか?
例えば、精神的な、霊性の道において、人間存在の構造には、肉体があり、その奥に幽体が、又霊体や神体があるのだ、とか人間が悟り、神と一つになる道には幾つかの段階があるのだ、とか。...
そういう構造や段階というものは、自分を客観におかないと認識出来ないでしょう。
霊的体験、覚醒体験というのは、こうこうで...つまりこうした客観的説明というものはほとんどがそういうものだということです。
このように、自分を客観において見ているようなことは、直に船の中に居る自分を認識していないことと同じでしょう。
勿論、こうして外に向けて何かを発信している訳ですから、そういう言い方も必要ですよ。知識として参考にするのもいいでしょうが、あくまで参考にしかならないでしょう。霊性の道にあっては特に。
人間一般がその道に関わっているんじゃないのです。あなたや私という具体的な個己が丸ごとそこに預けられているのですよ。なんで他人事みたいに傍観した心的態度でなど居られるでしょうか?
鈴木大拙師は「霊性は個己に開かれる」と言い、ベルジャーエフも「霊は人格に働く」と言いました。いずれも具体的な霊的体験からそのように言い表すことが出来るのです。
ああもう、こうして説明すんの、まどろっこしくてイヤになっちゃいますよ!
霊性は、具体的な個己、人格に開かれる!...その個なるものは、考えている自分であるのも確かなことですが、その個的なものを超えているのも確かなことです。
そうでなければ、どうして開かれるということがあり得ようか?
つまり、考えている自分は、そのままでそれを超えたものに預けられてしまっている、ということなのです。
言い換えれば、開かれるということは、超えられているということ...個己、個的人格と超己、超人格は相即しているということに他なりません。
これは取りも直さず、思いを超えるか、否かということを問題にしているのです。
”フカンして見る”とか気の利いたことが言われたりしますが、傍観して見て居るようなことは、いつまでもそう考えていることなのです。
自分とは何か、本当の自分とは何か、と考え続けていたら、船に乗り遅れるか、降りそこなうだけですよ。
自分を超えられない自分はそのままで、超えたものに預ける...この私に直に神的なものが現前したのなら、そうならざるを得ない!
それは、そのものあってのことであるのは言うまでもありません。
だから、神は私の神しか実在しないのでしょう!...
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