「それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は“空“であり、しかも虚無ではない”創造的空“である」
(八木誠一「創造的空への道ー統合.信.瞑想ー」/ぷねうま舎刊)
著者はプロテスタント系神学者、宗教哲学者で、仏教にも深い造詣があり(禅修行も豊富で印可も受けられている!)、ことにキリスト教、仏教の比較研究ではよく知られている方です。
私は昔、その方面の著書を読んだことがありましたが、正直あまり印象に残っていません。
私が玉城康四郎先生に深く傾倒する以前のことで、比較研究というもの自体に何か観念世界を超えられないものを感じて、さして関心がなく、“ダンマが顕わになる“という表現が出て来たところから、“この先生は玉城先生の弟子かな?“、などと大雑把に捉えていたのでした。
そういう訳で、この度初めて八木先生の本に本格的に触れてみたのですが、ところどころ日頃私が書いていることと重なることもあり、多いに共感を覚えました。
まず、前回の記事で、“空の意識状態と、そこに開かれる神的な現臨にある状態を一つに言い表す言葉がほとんど通用されていない“、というようなことを書きましたが、これを八木先生は、“創造的空“と呼んでいるのです。
それは、神的なはたらきの場であると言う。そこで“単なる自我“から“統合された自己~統合体“(このように、二つの自己の在り方が区別されている)へと転じられる...それが宗教的回心と言われる事態でしょう。
キリスト教で、神の子キリストと言われているのが、この統合体たる自己のことで、ただドグマとしてそれを対象にして信じるだけなら、単なる自我の想念世界に留まり続けるだけてあり、転じられる“信“とは、その神的なはたらきにゆだねることとされています。
これは、真にキリストの福音の、仏教との接点のみならず、普遍性への転出を意味するものでしょう。
では、その統合体、神人の実現は、如何に成されるのか?
それは、多くの人が示されるように瞑想です。しかし、それは“信“と切り離されるものではない。この信とは、勿論単なる信仰のことではなく、神的なはたらきにゆだねることであるのは言うまでもありません。
あまり詳しい説明は無いようですが、要するに祈りと瞑想は一つのものなのでしょう。
と...これ以上は、詳しく触れるのはとても無理です。何分、難しい哲学的用語も頻出し、一般向きとは言えませんが、少なくとも私には行きづまりの感のある、宗教、哲学、神学などの界隈にあって、一つの突破への道標となるものを感じずにおれません。
(八木誠一「創造的空への道ー統合.信.瞑想ー」/ぷねうま舎刊)
著者はプロテスタント系神学者、宗教哲学者で、仏教にも深い造詣があり(禅修行も豊富で印可も受けられている!)、ことにキリスト教、仏教の比較研究ではよく知られている方です。
私は昔、その方面の著書を読んだことがありましたが、正直あまり印象に残っていません。
私が玉城康四郎先生に深く傾倒する以前のことで、比較研究というもの自体に何か観念世界を超えられないものを感じて、さして関心がなく、“ダンマが顕わになる“という表現が出て来たところから、“この先生は玉城先生の弟子かな?“、などと大雑把に捉えていたのでした。
そういう訳で、この度初めて八木先生の本に本格的に触れてみたのですが、ところどころ日頃私が書いていることと重なることもあり、多いに共感を覚えました。
まず、前回の記事で、“空の意識状態と、そこに開かれる神的な現臨にある状態を一つに言い表す言葉がほとんど通用されていない“、というようなことを書きましたが、これを八木先生は、“創造的空“と呼んでいるのです。
それは、神的なはたらきの場であると言う。そこで“単なる自我“から“統合された自己~統合体“(このように、二つの自己の在り方が区別されている)へと転じられる...それが宗教的回心と言われる事態でしょう。
キリスト教で、神の子キリストと言われているのが、この統合体たる自己のことで、ただドグマとしてそれを対象にして信じるだけなら、単なる自我の想念世界に留まり続けるだけてあり、転じられる“信“とは、その神的なはたらきにゆだねることとされています。
これは、真にキリストの福音の、仏教との接点のみならず、普遍性への転出を意味するものでしょう。
では、その統合体、神人の実現は、如何に成されるのか?
それは、多くの人が示されるように瞑想です。しかし、それは“信“と切り離されるものではない。この信とは、勿論単なる信仰のことではなく、神的なはたらきにゆだねることであるのは言うまでもありません。
あまり詳しい説明は無いようですが、要するに祈りと瞑想は一つのものなのでしょう。
と...これ以上は、詳しく触れるのはとても無理です。何分、難しい哲学的用語も頻出し、一般向きとは言えませんが、少なくとも私には行きづまりの感のある、宗教、哲学、神学などの界隈にあって、一つの突破への道標となるものを感じずにおれません。
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