人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

空を超えて

2023-05-18 09:58:03 | 求道、探究
”空になる、無になる、無念無想になる...”
こういう境地を目指したりするのは、自力修行に取り組む人に多いと思われますが、私は勿論、そういう道を目指したことはありません。だって、普通に考えて出来ないことでしょ?...
それにただ、何も思わない、考えない、意志的な努力をしないというだけだったら、植物人間と一緒でーといっても私はそういうことになったこと無いので、それがどんな、精神的、意識状態なのか分からないのですがーほとんど人間存在としての機能を失うことになるでしょう。
当たり前の話ですが、空とか無とか、思考が無くなるとか言葉では言いますが、本当にそうなる訳が無いのです。もしそうなったら、そうなったことを認識出来ず、伝えられるはずがありません。
私がクドいほど言っていることは、思いの纏わりから離れること、思いを超えることであって、無くなる、無くすことじゃありません。持って与えられたものを無くす道理など無いのです!
禅仏教などでよく取り沙汰される、この”空”の問題ですが、ただ空になることだけを目指してるはずは無いでしょう。先のようにこちらからは容易になれるものでありません。
空じられた(この言葉が適切かどうかはともかく)そこには、思いを超えたあるもの、ある状態が存しているはずなのです。
それは、キリスト教などで言われる、”プレローマ~聖霊の満たし”のようなもの...神的な現臨を伴うあるもののことでしょう。
浄土系などでは、”如来住”とか言ったりしますが、どうも自力修行系には蔑ろにされがちになるようです。
そもそも、このもの無くして、思いが超えられることも無いにも関わらず、私にはそれが不思議に感じてならないのです。
最初から神的なものを、聖霊を、如来を求めたらいいではないか?
え?、”自分以外の何かに頼るべきではない?”
”多分、そう考えている自分以外何も無くなるか、その自分が完全に無くなるかどっちかだろう?完全覚醒というのは後者の方なのだろうか?、多分、完全にフニャフニャだろう?
神、聖霊、如来...人格神的なものを認めたくない向きの気持ちも何となく分かります。
ブッダはダンマと言い、老子はタオと言いました。宇宙意志でもワンネスでも何でもいいでしょう。
ただ、”空だ、無だ!”、何て言っているのは、ズレてるとしか言いようがありません。(それは強固な思いの囚われではないか?)
しかし、考えてみたら適当な言葉が無いようなのですね。思いから離れることとそこに臨むこととが直結(それは正に一つのことです!)したような言葉が...
そういうことに意識が向かないから、”空にならなければ!”、という思いが先走ってしまうのでしょう?
出来もしないことを”考える”より、安らぎを感じる方に思いを向ければ、容易くその思い(空への囚われも)から離れられるのに...

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