ここで取り上げている書物というものは、言うまでも無く私の愛読書です。
愛読書…そうですね…私はこの書をことの他愛しています。ただ惜しむらくは長らく絶版なのです。
ベルジャーエフ著「わが生涯―哲学的自叙伝の試みー」(著作集第8巻・白水社刊)
私はこの書物を読む度に「ここで語っているのは、私自身だ…」という感を抱きます。
勿論生まれた時代も境遇も違う…何よりも私と彼を分かつ点は、彼が私とは比べぶべくもない、精神的貴族とも言うべき、高貴な人間だったという点です。
ここで高貴な貴族的精神と呼んでいるものは、しかし、美徳の持ち主であるにせよ、自律的、克己的であったり、強靭な意志などのことを意味しているのではありません。
それは、自己の最も自己たらしめている内なる魂(ベルジャーエフは多くそれを人格と呼びました)への全き献身、愛の精神のことです。
精神的貴族とは、現実の社会的ヒエラルヒーでなく、内なる人格に仕える騎士なのです!
彼の思想の主要なテーマ人格、創造、自由といったものはこの事と結びついているのです。
「創造は外部からの何ものによっても限定され得ない自由の現出なのである」
私はこの点でとても下卑た、下層階級の人間に過ぎないです。しかし、どんなに身を持ち崩し、自分を見失ってしまっても、この書物に触れ「ここには紛れも無く私の魂の故郷が有る…」と感ぜられる度、私は自分自身を取りもどすことが出来るのです。
”私の精神は思われた以上に高貴なのかも知れない…”と。
これは通り一遍の自叙伝ではありません。…前述のものを初めとしたテーマが、彼の他の書物と同じように、前後の時系とは関係無しに自由にパノラマチックに展開されています。
ロシア革命、二つの世界大戦…と、この激動の時代相も内奥からの視点に根差しながら浮き彫りにされていきます。
又、この書には、彼の他の書物には見られない、舞台裏のエピソードが数多く織り込まれています。(それらは多くエウゲニア・ラップという霊感に富んだ女性の同居人の証言の挿入によっています)
例えば、彼の兄は神智学に傾倒していて、しばしば恍惚状態になって、インドのマハトマ?と交信していた、とか人智学者シュタイナーの魔術?との交戦?の模様(私には明らかにベルジャーエフの悪意が感じられます)など彼の生来からの神秘主義者的資質が伺われます。
私が個人的にとても興味深く読んだのは、それらも含めた、彼自身多くをそこに割いている革命前夜についての記述です。
20世紀初頭のロシア文化ルネッサンス。それは「文学と哲学の創造的飛翔の時期であった。それはまた新しい魂と新しい感情生活が告知された時期でもあった…」ベルジャーエフはこの昂揚した時代の雰囲気に呼応するように、自らもあるサークルの主宰に携わったり、積極的に多くの文学者、哲学者、神秘主義者と交流を持つようになります。
文学者メレシコフスキーの「新しい宗教意識」なるサークル、シュタイナーの人智学、デュオニシウス主義サークル、フロレンスキーの魔術的正教、原始的ボルシェヴィズム…彼は実際にそれらと関係していたそうです。しかし、いずれも彼の内奥を捉える事は無かったのです。「新鮮な空気流通の欠乏、宇宙大気の流入の希少…」とそれらの魔術的、閉鎖的空気には生来からして馴染めないものが有り、それらと袂を分かちました。
彼は非常に求心的であったと同時に、現実を目の当たりにして多くの幻滅を味わう、という冷めた感覚も持ち合わせていました。
(まるで誰かさんとそっくりじゃありませんか!)
やがてこの幻滅、通気性の無さを先鋭化したかのように、事態はコミュニズムの嵐へとなだれ込んで行きます。
「(人々は)一夜にして唯美論者、神霊論者になってしまうような事が随所に見られた…」
この短絡的易変性、閉鎖的空気の中で革命思想はブクブクと人知れず増殖して行ったのに違いありません。
しかし、同時に彼の内面では、この強固な組織的共同体とは裏表にあるようなソボールノスチ(精神的共同体)への指向も息づいていたのです。
又このころ「ある夜明けごろ、突然私の全存在が創造的昂揚によって動かされた…」という神秘体験とともに、自分がキリスト教徒であることを認識したそうです。
そして彼は自らを神秘的アナーキストと規定しています。
夢想、カオス、そして幻滅…表層にとどまってなどいられない
デキアイの宗教にも思想にも組したくない
たとえ、世界がどんなに液状化に見舞われようとも
私の世界の内と外が一つになるまで…
愛読書…そうですね…私はこの書をことの他愛しています。ただ惜しむらくは長らく絶版なのです。
ベルジャーエフ著「わが生涯―哲学的自叙伝の試みー」(著作集第8巻・白水社刊)
私はこの書物を読む度に「ここで語っているのは、私自身だ…」という感を抱きます。
勿論生まれた時代も境遇も違う…何よりも私と彼を分かつ点は、彼が私とは比べぶべくもない、精神的貴族とも言うべき、高貴な人間だったという点です。
ここで高貴な貴族的精神と呼んでいるものは、しかし、美徳の持ち主であるにせよ、自律的、克己的であったり、強靭な意志などのことを意味しているのではありません。
それは、自己の最も自己たらしめている内なる魂(ベルジャーエフは多くそれを人格と呼びました)への全き献身、愛の精神のことです。
精神的貴族とは、現実の社会的ヒエラルヒーでなく、内なる人格に仕える騎士なのです!
彼の思想の主要なテーマ人格、創造、自由といったものはこの事と結びついているのです。
「創造は外部からの何ものによっても限定され得ない自由の現出なのである」
私はこの点でとても下卑た、下層階級の人間に過ぎないです。しかし、どんなに身を持ち崩し、自分を見失ってしまっても、この書物に触れ「ここには紛れも無く私の魂の故郷が有る…」と感ぜられる度、私は自分自身を取りもどすことが出来るのです。
”私の精神は思われた以上に高貴なのかも知れない…”と。
これは通り一遍の自叙伝ではありません。…前述のものを初めとしたテーマが、彼の他の書物と同じように、前後の時系とは関係無しに自由にパノラマチックに展開されています。
ロシア革命、二つの世界大戦…と、この激動の時代相も内奥からの視点に根差しながら浮き彫りにされていきます。
又、この書には、彼の他の書物には見られない、舞台裏のエピソードが数多く織り込まれています。(それらは多くエウゲニア・ラップという霊感に富んだ女性の同居人の証言の挿入によっています)
例えば、彼の兄は神智学に傾倒していて、しばしば恍惚状態になって、インドのマハトマ?と交信していた、とか人智学者シュタイナーの魔術?との交戦?の模様(私には明らかにベルジャーエフの悪意が感じられます)など彼の生来からの神秘主義者的資質が伺われます。
私が個人的にとても興味深く読んだのは、それらも含めた、彼自身多くをそこに割いている革命前夜についての記述です。
20世紀初頭のロシア文化ルネッサンス。それは「文学と哲学の創造的飛翔の時期であった。それはまた新しい魂と新しい感情生活が告知された時期でもあった…」ベルジャーエフはこの昂揚した時代の雰囲気に呼応するように、自らもあるサークルの主宰に携わったり、積極的に多くの文学者、哲学者、神秘主義者と交流を持つようになります。
文学者メレシコフスキーの「新しい宗教意識」なるサークル、シュタイナーの人智学、デュオニシウス主義サークル、フロレンスキーの魔術的正教、原始的ボルシェヴィズム…彼は実際にそれらと関係していたそうです。しかし、いずれも彼の内奥を捉える事は無かったのです。「新鮮な空気流通の欠乏、宇宙大気の流入の希少…」とそれらの魔術的、閉鎖的空気には生来からして馴染めないものが有り、それらと袂を分かちました。
彼は非常に求心的であったと同時に、現実を目の当たりにして多くの幻滅を味わう、という冷めた感覚も持ち合わせていました。
(まるで誰かさんとそっくりじゃありませんか!)
やがてこの幻滅、通気性の無さを先鋭化したかのように、事態はコミュニズムの嵐へとなだれ込んで行きます。
「(人々は)一夜にして唯美論者、神霊論者になってしまうような事が随所に見られた…」
この短絡的易変性、閉鎖的空気の中で革命思想はブクブクと人知れず増殖して行ったのに違いありません。
しかし、同時に彼の内面では、この強固な組織的共同体とは裏表にあるようなソボールノスチ(精神的共同体)への指向も息づいていたのです。
又このころ「ある夜明けごろ、突然私の全存在が創造的昂揚によって動かされた…」という神秘体験とともに、自分がキリスト教徒であることを認識したそうです。
そして彼は自らを神秘的アナーキストと規定しています。
夢想、カオス、そして幻滅…表層にとどまってなどいられない
デキアイの宗教にも思想にも組したくない
たとえ、世界がどんなに液状化に見舞われようとも
私の世界の内と外が一つになるまで…
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