人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えない宝を探して

2020-12-08 12:12:24 | 雑感
昔から文学や映画などでは、所謂"宝探し"ものが人気を集めてきました。
誰しも心のどこかに、それが何かは分からないけど、それを求めてやまない宝物というものが思い描かれているのではないでしょうか?
"それは、とてもたどり着くのが困難な、どっかの秘密の場所に隠されているらしい...
それは、持つべき人に与えられるものであって、そうでない人が奪取しようとすると、良からぬことが待ち受けているらしい...
それは、いざこの手に掴んでみたら、ただ宝物だと勝手に思っていただけで、どおってことない、ただの石ころだった...いいや、本当の宝物というのは"至宝"でなければならないらしい...
それは、何か見えないものの象徴だったりするらしい...いや、それを求めての冒険が人生というものの象徴なのだろうか?...だから性懲りもなく続けている宝探しの旅..."

宝物というのは、モノなのでしょうか?...見えない何かの象徴だとしても、オブジェというか、何か掴み所の無い抽象的なものを型どった、"物体"なのでしょうか?
私には、宝物というヒビキから、その見えないモノ自体から、もっと具体的な何かのことが思い浮かばされるのです。
"見えないモノだけど、具体的なもの"というのは、一般通念から言えば矛盾しているのかもしれません。
だけど、誰しもが見えないけれども、具体的なものを日常的に感じて生きているのではないでしょうか?
そう、それは極めて感覚的なことなのです。例えば愛する人を思い描いたら、"胸きゅん"になるというのがそれです。
全心身が何かハートの辺りに凝縮される感じ...これは、私が"内的感覚"と呼んでいるものと関わっていると思われるのですが、それが浅い場合は、単なる肉体感覚か、精神の心的作用か、まあ感情の発露ということになるのでしょうが、深まればそのどちらでもない、又それらを超えたものが開かれてゆく感じになってしまうものなのです。
愛というものは、いくら抽象的に考えても分かるものではありません。
又世的には、何が善で、何が悪だ、とされているものがあります。
"悪とされるものを規制するのは、法だという...法に触れなければ何をしてもいいらしい...道徳倫理など、外側から律されるものは今や根本的に破綻しているのではないか?"...
我々は内側から本来から、"善というものを感じる"ことが出来ないのでしょうか?
少なくとも"幸福であることが善である"、とも感じられないのでしょうか?...いや、幸福であることもどういうことか、感じられないのでしょうか?...
こういう感覚のことは、私自身がつい数年前まで、子供の頃からずっと感じられない、分からないことだったのですi
"分からないi...だけど、きっとどっかに有るに違いないi...そうでなければ世の中のことはすべてウソッパチi...そんで、何もかもがぜーんぶ吹っ飛んじゃってオシマイi"
私はこういうものをそうと知らずに探し求めて来たようなのですが(ということは、自覚されずとも、どっかでは感じていたのでしょう)、それが本当の至宝だったのか、どうかは分かりません。
少なくとも、"私はこれを手に入れたi"、などとは決して言えようはずなどありませんi 至上なるものには"これだi"、なんていうものは無いのですi
それに、そんなつもりでいたらすぐにでもお引き上げとなるでしょう。
誰にも手に入れることは出来ない...そして、誰もがそれに"与る"ことは出来るでしょう。胸に手を当てて感じてみれば...
それはどこまでも与えられる、与えられているものなのではないでしょうか?
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