人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イエス最後の言葉

2022-09-28 09:30:54 | キリスト教関連
新約聖書マタイ伝によると、イエスは、十字架刑により自らの最後に向かう時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、神よ、何故私を見捨てられたのですか?)」と叫んだ、とあります。
私は、初めてこれを読んだ時、神の子イエスといえども、断末魔の叫びをしてしまうのだなあ、などと思ったものです。
これには昔から諸説があり、中には“神人一体の境地にいるイエスがそんな言葉など発するはずが無い!、何か歪めれて伝わったに違いない!”、という人もおります。
真実のところは、イエスに聞かなければ分かりません。
イエスの身にならなければ...な~んて、そんなのまっぴらゴメンです!...人間なら誰だってそう思うでしょう?
あんな残忍な刑などやる方も人間とは思えません。
この言葉は、旧約の詩篇の一節にあるそうですが、今わの際にそういうことを諳んじたりするのでしょうか?、しかもその言葉だけを?
やっぱりそれは、思い極まって発せられたように感じます。
イエスの”当たり前に”弱い、人間心から出されたのではないでしょうか?
しかし、それはイエスの本心だったのでしょうか?
何故なら、その直前まで隣で共に十字架にかかろうとしている者に向かって、「お前さん、今日パラダイスにあるんだよ!」と諦観、すべてを任せたような心境を表していたからです。
だけど、人間というものは、この機に及んでなお、否、最後の際だからこそ、分裂するものです!
私だったら多いにあり得ますとも!...”おい、俺が一体を何をしたって言うんだ!”、とか”た、頼む、い、命だけは助けてくれえ!”、とか人間ばかりか神に向かっても、そういうこと言うんじゃなかろうか?
イエスは、敢えてそうした弱い人間心というものを吐露したのではないでしょうか?
何のために?...我々当たり前に弱い人間のために!...
イエスは、人の子と呼ばれました。人の子という意味にも諸説があるようですが、私は、普通にイエスといえども人の子、イエスだから人の子でいいと思っています。
イエスは、人間というもの、この矛盾した、得たいの知れない生き物を象徴している存在だったのではないでしょうか?
それは、人間はどこから来て、どこへ向かい、帰るのか?、ということも示されていたのでしょう。
イエスは、神の子と呼ばれました。が...人の子でもあった!
だから、普通に笑い、泣き、怒るという人間らしい生き方をしていたのです。
そして、最後の最後には、分裂し、神をも否定するような心情も見せる。
しかし、本当に神のみ手にあり、全託の境地にある者からは、ああいう言葉は発せられないでしょう。
それは、本当の最後の言葉であるはずは無かったのです!
本当の最後の言葉は...「我が霊をみ手にゆだねます」...だったのです。
最後の最後にはそうならざるを得ない...
そこにすべての人間の行き着くところが示されているのではないでしょうか?!
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3 コメント

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Unknown (ジダン屋)
2022-09-28 21:53:40
一個の人間としてのイエス像を書いておられるシタさんの御話にはワタシも同感致します
…然しワタクシが過剰反応してるのは、全ての人類の贖罪の為にイエスが十字架に架けられ復活された、それを貴方は信じますか?と必須条件の様に神父に迫られて答えに窮した青年時代の苦い思いが未だ残ります
哲学書を何冊も読まないと、即答出来ぬ様な謎掛けを
受けた様な苦さが有りました
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Unknown (シタテルヒコ)
2022-09-28 19:10:05
聖書にしろ、コーランにしろ、どんな聖典でも神話的な表現が成されていて、真相は分からないものであり、そこに客観的事実を求めるのには無理があるでしょう。
私はただ、その「み手にゆだぬる」という最後の言葉(らしいもの)について感じたことを書いただけです。
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Unknown (ジダン屋)
2022-09-28 16:44:53
井筒俊彦先生の訳したコラーン(コーラン)に拠ればイエスが磔になって死んだと言うのは幻影であって、予め企てられたトリックだと言う事をムハンマドは神から告げられています
即ち如何なる聖者、預言者と言えども一度肉体的に死を迎えた者が再び蘇ると言う様な事は有り得ないと言う事をムハンマドは神より教示されたと言えます
同じ啓示宗教、兄弟宗教の預言を敵対する邪教の冒涜行為と捉えているのがキリスト教の態度ではなかろうかと私は疑問に思っております
必然的にキリストの最後の言葉さえも壮大なトリックの一部でしかない、とワタクシは捉えております
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