人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

言葉で言い表わしえぬもの

2015-02-17 19:30:02 | 哲学・思想
「神の本質についての何らかの知識に達するずっと以前に、我々は神の現臨の直観を所有しているのである。」
                           (A.J.ヘッシェル  「人は独りではない」教文館)

リンゴは何故落ちるのか? 万有引力があるから…と、科学はこのように証明しますね。
では、万有引力は何故あるのか?
太陽は東から登る、地球が太陽を回っているから…かのコペルニクスが証明したのだ…だが、何故、そうなっているのか?
人はもっともらしい証明さえ得られれば、お墨付きを持らった様に納得してしまうようですね。
そして、そこから本当に驚愕すべき事実を前にした畏怖の感覚が、我々から抜け落ち始めるのです…。
我々は何故、生きているのか? 心臓が鼓動し、呼吸をしている…そういう機能が有るからだと言って納得してしまったなら、この神秘的機能は単なる機械と何ら変わらなくなってしまいます。
しかし、機械からはあの言葉で言い表わしえない、暖かみ、命の波動といったものは伝わってきません。
証明されえるもの以前には、それよりはるかに広大な領域に、証明され得ぬものが生き働いているのです!
そして又、その不可知のものに対し、神の意志が有るからである、と短絡的な説明がなされることによって、我々の限りある思考によって広大な領域は狭められてしまいます。
私自身も神という表現を便宜的に使いますが、それは言葉で言い表しえぬものであるのは言うまでもありません。
それは証明され得ぬものであるのは勿論、信仰の対象にも成りえません。
成りえるとしても、何らかの象徴以上のものたりえません。
もし、そこで象徴を超えて、信仰対象そのものになってしまったならば、おそらくそれ自体との生きた交わりは絶たれてしまうでしょう。
このものには、科学的証明も宗教的教義も不要なのです。
この生き、働いているものを感得しているものにとって、それは自明のものだからです。
純粋に空気や日光に触れられるように、感覚出来るものです。
いや、我々がそもそも生きているという事は、このものが生きているという事なのです。
何らかの修行をしなければ、獲得出来ないというものでなく、「神秘は我々自身と離れて存在しているのではない」(ヘッシェル)のです。

マルティン・ブーバーと並ぶ、ユダヤ系哲学者A.J.ヘッシェルはあらゆる宗教、哲学思想を超えて「神の現臨」へと、我々を誘う優れた語り手です。
(手島先生の息子さんで、ユダヤ神秘主義の貴重な研究をされている手島佑郎さんは、晩年のこの現代の預言者の弟子でした。)
我々のごく日常には、至るところに言い表わしえぬものを見出すことが出来ます。
いつも、その静かな、穏やかな営みの赴くままに我々の営みをまかせていれば、時にそれが意識へと浸透して、何もかもが新たに生まれ変わる…
彼のメッセージは今、世界的規模でフタ開けし始めている、意識の目覚めを前にして、とかく”又聞き”による先入観などによって、曇らされてしまいがちな我々の精神に原初的な、原体験的な脅威、畏怖の感性を呼び覚ましてくれる道導べとなるでしょう。
いくら考えても分からないことを、分かろうとしたり、悟りや覚醒についての定見にとらわれたり、何にもまして”分かったつもり”になることは再びフタを閉めてしまうことになりかねません。
我々は何一つ分かっちゃいなかった!分かる必要も無かった!ずっと、ずっとこのものと共にいたのです!
我々が知る以前に、このものによって知られていたのです!
我々が捉える以前に、このものによって捉えられていたのです!

それでも地球は回る…回っているから回る…驚いた! 私の眼も回る…。




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世界的規模のフタ開け

2015-02-15 15:00:24 | スピリチュアル
「あんな真面目な人が、善人が何故あんなことを…」「学校教師、警官、宗教家…かかる人たちが何で又あんなあるまじきことをするのか…」いつもながらニュース報道で、おなじみのコメントですね。
でも、それを聞いてこんな感想を持つ人も居ることでしょう。
「ああいう人たちだからこそ、あんなことになってしまったんだろう」と…報道ではこんなことは言えないのでしょうか?
忌わしい事件の数々に接してみて、何か行きどころの無くなったネガティブな思いが、巷にあふれ出てきている、という印象を持ちます。
「悪いこと、罪深いこと、恥ずかしいこと、自分が信じてる正しい宗教の教えに反したこと…」
何と我々人類は、ことの良し悪しを巡り、自他を傷つけ、殺め続けてきたことでしょうか!
特に何かの信念を持った、常に正しくなきゃならないごリッパな人たち、悪や不調和など持つべからずという人たち、彼らはごく身近にある、悪も罪も認めることなど出来ず、それらは否定され、フタをされてしまいます。
ごく身近にあるものとは、自分と分かち難くあるもののことです。
元々分割など出来ないにも関わらず、彼らは正しいもの、こうでなくちゃならないもの、救われるものなどと、善からぬもの、滅びゆくものなどとを分け、常の自分を正しいサイドに置き、別のサイド~それにはサタン、異端、闇の勢力などと言った表現がつけられています~との戦いに明け暮れています。
所謂信じやすい素朴な人たちでない、より洗練された人たちは自我、エゴと戦い続けています。
(その戦いを仕掛けているのもエゴなんですよ!などとイタチごっこみたいなこと言っても始まりません!)
この戦いの本質は葛藤、つまり自分との戦いです。
今や世界的規模で万人の万人のための戦いが始まっているかのようです。
そうしてこの戦いによって累々たる否定された思いが、見えないマンホールへと追いやられます。
でも押し込められた感情がいっぱい詰まったマンホールは、いつしか飽和状態に達しフタを押し開け噴き出すに至る…
これが今全世界で起きていることのように思えます。
この怒涛のように押し寄せるネガティブな感情の前には、我々は為す術が無いのでしょうか?
そうですね、多分…無いです!
そもそも、我々が何とかしなきゃならないと思う事自体が、戦いの始まりだと気づくべきなのではないでしょうか?
これはもう、我々の手に負える事ではないのです。
隠されていたものが顕わになる、これは必然とも思えます。
そしてこの世界的規模のフタ開け現象には、別なるもっと本質的な事が隠されているようです。
押し込められたもの、追いやられてきたものの復権…
それはこれまで証明されることが出来ないと言う理由で、現世では否定されてきたものです。
肯定される事が有っても、その実相は誰にも分からないものです。
それが我々の本質を顕わにする…
そして我々の暗部に光が当てられる…
「人は神の子、本来悪も罪も無い」という教えが有りますが、それは魔法のように悪や罪が無くなってしまうという事でなく、悪と見えるもの、罪と思えることが違った様相で映し出され、闇もまた全体の一部だったと知らされるのが、”生命の実相”の真相ではないでしょうか?
それは人の信仰や信念によって知らされるものでは有りません。
それは隠されていた我々の本体の顕現によって知らされるのです。
その時、我々はあれとこれとに分裂したものでなく、一つの命だったのだと知らされるでしょう。
このことはまず、自分自身について示されることです。
自分自身との和解です。
その時、自分自身にも見える世界にも戦いは終わるでしょう…。





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幻の殺人事件

2015-02-14 21:01:29 | 身辺雑記
私はつ、ついに衝撃の告白をしなければならなくなったようです!…
実は…私は人を殺しました!
去年の夏、ある未明のことです…
夢の中で…

10数年前にも似たような夢を見た事が有りました。
この時は暴漢のような男に襲われたので、トラックの助手席に逃げ込んだのですが、男は尚も前に立ち塞がって来たので、運転手に「構わないから出してよ!…いってまええ!」とやってしまったのです。
男の生死のほどは不明でした。
しかし、今度はヤバかった…
会ったこともないどっかのオヤジがなんかの理由で、イチャモンをつけてきて、それがこじれてもみ合いになり、弾みだったか故意だったか、柱に思いっきりオヤジの頭をぶつけてしまったのです!
エッ…動かなくなってしまった! こ、これは…ヤバイ!
そこで、とっさに考えたことは…
「見つかってしまうゾ!…どっかに隠さないと…」
又、すぐさまこんなことも…「これは…そうだ、そうなんだ!ものの弾みってヤツなんだ!」実際のところ、殺意は?確かに…有った!…
要するに保身に懸命だったのです…。
こういう事はごリッパな人間には間違っても書けないでしょうね?
私はへーちゃらです。タダの人間ですから。当たり前のことながら…
でも、しばらくして冷静さを取り戻した時、もう茫然自失です…。
「私は何てことしてしまったんだろう…取り返しの着かないことを…」
その時の気持ちには、良心の呵責というものも有りましたが、なんて言うか…それまで感じたことの無いものがもたげてきました。
私の心に、このオヤジの人生を全うすることなく、命を絶たれてしまったという、無念さというものが伝わってきたのです。
そして命を奪ってしまった事の申し訳なさ…それは自分の存在を切り刻むという事に等しいものです。
言い訳がましいですが(あのお…これはあくまで夢の話なんですからね!)殺人というものは、「やってはいけないこと、罪なこと、罰せられるべきこと」というより、命そのものを損なうという事は本来性からやれないこと、他の命だけでなく、自他の命に係わることなのだ、という事を実感させられたのです。
そして、全身にジワーッとくる言葉を超えたもの(それはあのバイブレーションというには、さすがに重たいものが有りましたが)に包まれました。
これは通常良心(これには多分に社会的倫理観といったものが投影されていると思います)というものよりも、もっと根底的な、本来的なものの様に感じられました。
小池先生はモーセの十戒にある「汝殺すなかれ」に「汝、神の子なれば、殺すことなどすまい」と福音的解釈をしていました。
人を殺めることは罪というより、出来ないことなのです!
そうした感情は、人の本来性から与えられているものなのです!
今日いやと言うほど、毎日のように繰り返される忌まわしい殺人報道。それに手を染めてしまうという事は「自分が何をしているのか分からない状態」としか考えられません。
そのような宿業は誰もが皆潜在的には持っていると言わざるを得ません。
又人が定めた法や倫理に依らなくとも、誰にも自ずからそのような宿行に走らない生命法ともいうべきものが与えられています。
これらはどちらも他人事でなく、自分のこととして見つめる必要が有ります。
私は本当に貴重な経験をさせてもらったと思っています…。

人を殺めてしまうということは、何と忌まわしいことなんでしょう…
一生私は十字架を背負って生きなければならない…
でも、すぐ救われました。
夢だと気づいたから…。








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ベルジャーエフ

2015-02-11 15:26:01 | 人生の教師
「ベルジャーエフを訳したあとでは、こちらもだいぶ熱に浮かされている。解説を書くにはあまりいい状態ではない。」

これはベルジャーエフの訳者の一人、氷上英廣さんのコメントです。
この他にもこの”現代の予言者”と言われた、ロシア人哲学者についてのパッションを濃厚に感じさせる文章をしばしば目にしたことがあります。
私もまた何度か書いたように、彼によって内部に火が点ぜられた者の一人です。
彼を知るきっかけは、小池辰雄先生が「神と人間の実存的弁証法」という作品を訳していたからです。
それまで哲学書などわずかに、プラトンをかじったことがあるくらいで、殆ど関心がありませんでした。
「概念だとか、論理などで真理が分かってたまるか!」などと、高を括っていたのですが、昭和54年秋に実際読んでみると「おお、これは読める!」…理解したかどうかはともかく、グイグイと引きこまれてしまった記憶が有ります。
これに味を占めて、他の哲学書にも手を出してみたものの「ダメだ…まるで迷路にはまり込んだみたい」に感じたものです。
これは、どうもアカデミックというか、学的哲学からはみ出た、異形の哲学らしいことを知ったのは、もう少しあとのことでした。
そして二冊目に読んだ「精神と現実」によってあのリアリティと至福に満ちた、”人生の裏側”へと導かれてしまったのです。
読み返してみても、どこをどう読んでそうなったかは分からないのですが、とにかく心の暗部に光が差し込んだようで、震えが止まらなくなってしまいました。
といっても、本格的に裏側の世界に踏み込んでしまうのは、数年後のことでこれにより突破口が開かれ、何よりその瞬間が訪れる予感がもたらされたのです…。
ベルジャーエフは自伝的作品「わが生涯」の中で、生まれた当初から「自分を、己にとって異質的な世界にやって来た外来者と感じた」と述べていますが、実に共感出来る言葉です。
ただこの言葉が謎めいています「私は別なる世界に出生の起源が有る」
そしてさらに、「自分がより高い世界からこの世に堕ちてきた」とも…この言葉には彼のキエフの没落貴族という出自が反映しているようにも、人間そのものの宿命的な運命が照応されている様でもあります。
「人間は神の像を宿しており、小宇宙である。」
これが彼のあらゆる思想の基調をなしている人間観です。
ここから本ブログのテーマとも重なる「人間は、人生は思われているようなものでは無い、より高い次元に起源が有る」というところに導かれる訳です。
ここにはキリスト教の影響が見られるのは、言うまでもありません。
私は時に彼のキリスト中心の観方と言うのが、鼻に付かなくも無いのですが、ロシア革命前に書かれた「創造の意味」の中で、来たるべきキリスト教についてこのように述べています。
「聖神は(聖書といった)固有の書物を有せず、外部からの訓戒を知らない。」「人間の内なる神的なものが…上からでは無く、下から開示される」(外的権威に依らず、内から…と読み取れます)
彼によれば、既成のキリスト教はもう使命を終え、神人の秘儀は終末的キリスト教において開示されるとしているのです。
このキリスト教観は西欧のそれとも、正教会に由来するものでも無く、彼独自のものだったようです。
当然のことながら、既存のどのキリスト者とは殆ど相容れる事はありませんでした。
訳者だった小池先生でも、ベルジャーエフについて言及しているものに接したという記憶は殆どありません。
何しろ聖書を有しないキリスト教…それはもはやキリスト教では無い!
ここに見て取れるのは別世界よりの福音と言うべきでしょうか?
地上では理解されるべくも無い、一定の住居を持たぬ巡礼者の福音なのでしょうか?
私にはこれが逆説的な、あらゆる相対を絶した普遍世界よりの喜ばしきおとずれに映っているのです…。


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人生の教師と見えざる導師

2015-02-10 20:21:21 | 人生の教師
当ブログではおなじみの五井先生や小池先生、玉城先生など、いずれも私には懐かしい人生の教師たちです。(忘れる事の出来ない人でまだ紹介してない人も居ます)この方たちとの出会いは鮮烈に覚えていますし、当初はあまり自覚されてなかったのですが、その後の歩みを重ねるにつれて、いよいよその得難い出会いの重みを感じて、感謝は尽きないものが有ります。
この方たちは、私にとって”師匠”と呼んでも良さそうなものなのですが、そう呼ぶには一寸躊躇するところがあるのです。
聞きようによっては、生意気に取られるかも知れませんが…
その理由は第一、硬いこと言うようですけど、私は正式に弟子入りなどしたわけではありません。
又、弟子と言うにはあまりにもドライだったというか、筋目と言うのが無さすぎたと思うのです。
ある一人の師について一筋に歩んでこられた方からしたら、何でこんなに何人も先生が存在するのか、不思議に又、さぞイイカゲンに思われることでしょう。
これにはまず、よく反面教師のように語られることの多い、M教団で経験してきたことが大きく影響しているのです。
一時、五井先生に対して向けられたことはありましたが、ある個人、その教えを絶対視するとか、権威を向けてしまうことが出来なくなってしまった、ということです。
そしてその裏返しのように、その教団を辞めた直後私の意識に次のような声なき声の促しが刻まれました。
「お前の前には、お前が辿るべきいくつもの道を用意している…お前の魂の望むままに自由に味わうが良い…」
そして、その促しが後押しをしてくれるかのように、幾多の奇縁と結ばれていったのです。
朝、奇しき出会いに感激したかと思うと、夕べはまた別の出会いの感激に酔いしれる…「自分の魂にウソはつかない」といった調子です。
このようなプロセスはよく宗教、精神遍歴として語られることが多いのでしょうが、私の場合取っ代え、引っ換え道を代えて行った訳ではありません。
一度鮮烈な出会いを持った縁とは、私の内面でずっと続いているのです。
ただ、これら教師を巡る特定の精神的グループとの関わりにおいては、しばしば私の内面と衝突しました!
多くの場合、上述した相対的権威の押し付けなどが私に向けられるや否や、私の逆鱗に触れたものです!
別の観点で言えば、私の人間関係についての忍耐の無さ、人情味の無さといったところでしょうか?…
教師であっても導師、マスターと呼ばない別の理由は私なりの定義に有ります。
それは、導師とは”明け渡し”の対手だということです。
小池先生がよく言っていた「人生における決定的な砕けの瞬間」自分が無条件降伏した、そこにいる存在のことです。
「もう、この方となら心中しても本望だ!」と思える存在のことです。
私の場合、それが声なき声、圧倒的な現臨感で示される”見えざる導師”です。仏教では法身仏というのでしょうか?
こんなこと聞くと、奇矯に感じる人も居るかも知れませんが、誰が何と言おうと”人生の裏側”ではこういう霊縁の方が一般的だと思います。(妙チキリンな表現ですが)
これは、相対を超えた領域にあるということで、肉体の形をとる必要が無くなるということです。
そして、遅かれ早かれ見える導師と縁の有る無しに関わらず、みんなそれぞれの霊縁で結ばれるものと思います。
考えてみれば、私と縁のある教師たちは、呼び方は守護神であったり、霊なるキリストであったりしますが、各々見えざる導師とつながりを持った方ばかりです。
そして今日、相次いで意識の目覚めに預かっている方もおそらくは…雲さんばかりではないはず…
今の時代は、特定の教師という存在は必要でなくなってきているのでしょう。
物事がダイレクトに流れてきている感じです。
人が人に教えたり、教わったりというのは、相対的にならざるを得ません。
でも、私の内には教師たちの懐かしさというのも消し去ることが出来ません。
少なくとも、私の幾多の気付きには彼らが土台となっています。
その目先は相対を超えたものに向けられていました。
見えるものは、見えないものの証なのです…。






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