人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

客体化と現実化

2016-02-11 18:29:36 | 哲学・思想
「精神は主体であり、精神は主体の中にのみ顕現する」
「精神はまたおのれを客体化し、外へ向かって自己を投影する。」(ベルジャーエフ 精神と現実)

客体化などという哲学的な難しそうな言葉など理解していなくても、こういう事はこの世に生きている人間ならすべて経験しているはずです。
何故ならば、この世自体が”客体化された世界”とも言えるからです。
”生きんがためには、金が無くてはならない”この事が何よりも物語っているではありませんか?
その人生を生きているのは、そこで主体となるべきは、当然のことながら自己であるべきです。
然るになぜ金の奴隷にならなければならないのか?
そこには主体としての自己など見出すべくもありません。
客体化とは自己が別の何かに主権が移行し、隷属してしまう事です。
こうした事というのは、私は何より宗教とかスピ界など、精神に関わるものにこそ顕著に窺い知ることが出来るかと思います。
ごくシンプルに神や真理に触れたいという探究心というものが、いかに特定の宗教への関わりからその教団の使いやすい道具にすり替えられてきたことか!
その教えに従って信仰、修行に携わってみたものの、来る日も来る日も形式的な繰り返しに没頭するばかり…
そして組織への献金、奉仕活動、ひどいものに至っては、肝心の魂までもが洗脳の名のもとに教団の意のままに操られるに至るのです。
純粋な神や真理などは因習と伽藍のうちに消えてしまうのです。
最近では、スピ界などでこうした事態が起きるのは、分離意識の作用として理解されているようです。
だが…例えばスピリチュアルなものがビジネスと結びつく時、有りがちな事として”一人でも多くの人に自分が得た真理を分かち合いたい”、と思って出発したものが、何時しか例えばそのセミナーなりの受講者の増加を図ることに心が奪われ、営利に走り出すことにすり替わる事に気が付くことでしょう。
この過程こそが、そこでどんなに意識の超越について語られようと、分離意識の何たるかが証されていると言えます。
私が感じるに、意識が政治や宗教思想などのイデオロギーと経済的なもの(お金)と結びつくや、もうこの誘惑から免れなくなると思います。
この世にはこのように魔的な力が潜んでいるらしい…しかし、それはこの世を影で支配しているという陰謀などを想定する以前に、この我々の意識の変質について思いを向けた方がはるかに根本的な事だと思いませんか?
そもそも、なぜこの客体化なるものが起こるのか? ベルジャーエフによれば「精神が外的に自己を表現する…客体の中へ入ること」からである、と言います。~ここで彼が精神と呼んでいるものは、通常言われているもの以上に我々の内なる霊的なハタラキ(スピリット)というものを多く含んでいます~
つまりこれは、遍満する霊なるハタラキが自己限定して表に顕れる過程で生まれる、ということなのです。
ベルジャーエフはこれを”精神の現実化”と言って、先の”客体化”と区別しています。
客体化とはこの意識が”確たるもの”、”固まったもの”、”定まったもの”に向かい、それと同化してしまうという事と観ることも出来るでしょう。
(精神の硬化、物質化)
こういう事態というのは、あたかも火山噴火により溶岩が地上に出されるや、冷えて岩となってしまうように、必然的に起こるものとも言えますが、地上の見えない裏側ではその地殻エネルギーは絶える事無く燃え続けています。
精神、霊的なエネルギーは、このようにそれ自体限りを知らない生きたハタラキです。
必然的な法則などといったもので捉えることなど不可能です。
必然的に思えるのは、”必然的、確たるものでなければならない”とする硬化した、客体化された精神にしかありません。
”何かが掴めた、捉えた、分かった、手に入れた…”これが悲劇の始まりではないでしょうか?
主体とは、それ自体で生きているハタラキ的なものと共にあるということです。
ただただ、そのものに打ち任せる他有りません。
”悟りを得た”とか”究極の何かに達した”とかいう物言いには、ハッキリそういう何かを得、何かになれるような個体が有る、ということが伺えます。
個体的なものが有ったとしても、ただハタラキがそれを貫いて顕れる…という事が有るばかりではないでしょうか?
それが真の主体の現実化ということなのでしょう。











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僕は夢遊病者だった…

2016-02-10 20:15:12 | 詩的文章
”お前は一体どこへ行こうとしているのか…
私はここにいるよ…
ここへ帰っておいで…
そして…安らぐがよい…”

これは夢なのだろうか…それとも…

ここは一体どこなのだろう

どこが空間で、どこが道なのか分からない

どこもかしこも灰色の壁で覆われているようだ

手ごたえも、ぬくもりも感じられない

すべてがプラスチックで出来ているんだろうか

とにかく、このままじゃいられないよ!

出口を探さなくっちゃ!

僕はあてども無く歩き続けた…

鉛が入ってるような重い足を引きずりながら…

この際の無い道は段々下がっていくようだ

何かに引きずり込まれていくみたいに…

息も段々苦しくなってきた

不安でたまらなくなってきた

ここは一体どこなの…僕はどこへ行こうとしているの…

誰か答えて下さい!

すると…

どこからか…全身を震わせるような、あの声が、

僕を呼び止めた



僕は泣きながら何度も家の中をぐるぐる回り、

何を思ったのか、突然外へ出ようとしたらしい…

夜も遅いというのに…

母ちゃんがそう僕に告げていた…

すると…あの声は、母ちゃんだったのか!

それとも…









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ホントのこと言って悪いですか!

2016-02-08 13:54:44 | 雑感
何時の頃からか”空気を読む、読めない”などと言われ出しましたね。
実に良くも悪くも、日本人ならではの空気感を感じさせる物言いです。
普段の私は面倒臭がりなので、黙って周りの空気に合わせるところが有ります。
ただ、何かのきっかけで揮発スイッチが入ると、空気を読まないどころか、その場をぶち壊してしまう事にもなり兼ねなくなります。
例えば、あるキリスト教系の集まりで、(私はそこへはリベラルな空気が有って、居心地易いであろうと思って生き始めたのでした)
そこである信者さんが、”伝道に使えるようなマニュアルみたいなものありませんか?”とそこの主催者の方に聞いたので、私はよせばいいのに感じたことをこのように言い放ったのでした。
”私にしたらマニュアルのような話を聞かされたって、有難くもなんとも無いですね! 自分がホントに信仰生活で有難く感じたことなどを伝えればいいんじゃないですか?”と。
すると、後日これが教務の方に伝わって、問題となったようでその主催者から「あなたのいう事は私もよく分かるが、上からのお達しが来たので、来会するのを遠慮してほしい…」という旨のことを告げられたことがあります。思わずその教会に殴り込んだろか!と思いました。
こういう事というのは、これまでも度々ありました。
ある種の宗教、スピ系では、例えば全く無反省に”前世が有る”といった言説が平然と語られたりします。
私は前世については肯定も否定もしません。過去世を読めない普通の人間にとってはこれは当たり前のことですよね。
それは”分からないこと”なのです。だから…
”OO先生は「前世が有る」と言ってる、その信者は皆それを信じてるらしい…あなたは?”などと訊かれても…
”知らん!分からんものは分からん!ホントのこと言って悪いですか!”
周りのその他大勢の醸し出す空気に任せても、何処へ飛んで行くか分かりません。
分からない事、確証の無いことを信じ込む程、バカらしいものはありません!
”前世の実在についての考究”といったもの自体は、私はあながち迷信とも妄信とも思っていません。
又実際に”実見”に基づく言説があれば、検討する価値も有るでしょう。
この事に関して前世も来世も現前というものと切り離されたら意味などないでしょう。
ただ”誰々がそう言った”、とか”教典にそう書いてあった…”というだけで、やみくもに信じ込むこと自体が迷信、妄信なのです!
そこには何一つ内省というものが有りません。思考停止の事態に陥っているのです。
だからいつまでもその界隈では、特有の迷信臭さ、胡散臭さ、学の無さ等々のニオイが付きまとっているのです。
宗祖なり、教師なりが表明したものは、それぞれホントに感じたままを述べているのかもわかりません。
でも、それに合わせ、迎合するだけでしたら一人一人のホントは生きて来ません。
一人一人の生きた現前~それは今深く感じている、思わされているままのこと~は蔑ろにされるからです。

私はスピ関係を生業にしよう、スピ・ビジネスをしようと思ったことは一度もありませんが、”もし自分が目下ビジネスとして展開していることが、本当に自分自身が深く信じていることとズレが生じだしたら、割り切ってビジネスはビジネスとしてやり続けるだろうか?” と想像すると…
そうなってみないと分からないですが、多分…ビジネスをたたむことを考えるだろうと思います。
私は平気で人を欺き、ウソを付きます。
ただ自分自身の魂だけは欺きたくありません。自分のホントを金に売るなんて…そうなったらビジネスどころか人生も潮時でしょう…
自分の魂の表明と何かのコマーシャルと結びつくというのは…”商魂”! ああ、いやだ、いやだ、想像するだに…スピ・ビジネスなどまっぴらです!










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阿弥陀仏と光

2016-02-07 13:11:00 | 仏教関連
欧米での禅の普及は、我々日本人の想像を超えたものがあるようですね。
ノンデュアリティの流行もおそらく、禅の下地があってのものだったのでしょう。
で、日本を代表する宗教というのは、禅仏教と観られているようです。
これって、我々日本人の感覚としてはどうなんですか? へえ?
御存知のように日本には仏教各派があって、禅宗ばかりじゃないですね。
ちなみに私の家の宗派は曹洞宗ですが、これが実に少数派なのです。
学生の頃周りに聞いた範囲で、圧倒的に多いのは真宗だったと思います。
欧米でこのような偏った観方をされているにも関わらず、”どうしてくれるんだ鈴木大拙さん!”なんて話はあまり聞かないのは、浄土系の信仰が日本に浸透しているからなんでしょうか?

浄土信仰は、既に奈良時代に我が国にもたらされ、鎌倉時代に浄土宗、真宗が起こされる以前から民衆の間に浸透していたことを考えると、ほとんど武家社会に限定されて広まった禅宗系に比べて、ずっと我が国に馴染みが深かったと言わざるを得ないと思います。
称名念仏(それ以前は文字通り仏を念じる観想法のような行)というものが定着したのは、法然上人以降からですが、実に画期的なものだったと思います。それはごくシンプルに広く大衆に”祈ること”を根付かせたものと言えるでしょう。
平安時代から広まった所謂加持祈祷のように、何やら複雑で俗信と結びつくものでなく、救済という眼目のみならず悟道という事も踏まえたことを「南無阿弥陀仏」の名号に集約させたのです。
これが後の親鸞上人に至ってより内省的になり、行としての念仏がよりシンプルに、日常生活に密着したものになりました。
私は、勿論無宗派ですので、どの祈り文句でなければならない…などという事は言いません。
ただ、この念仏の”阿弥陀仏に帰依します”という意味には、実に浄土仏教を超えた普遍的な内実が込められています。
阿弥陀仏とは、無量寿、無量光仏です。永遠の命、遍く通る光…無碍光如来。
それは人間の内奥…真人、神人にはこのような永遠なるものが綾なしていることを伝えています。
多くの宗教でそれは救世主の位格として説かれてきました。
浄土宗系では単純にそれは親しみをもって”お”とも言われます。光は闇を照らします。
闇の中に居たら闇は分かりません。闇が分からなければ光も分かりません。
宗教、スピ界などで、自我を超えようと、真我なるものに一生懸命気付こうとしても、所詮それは自我の独り相撲の堂々巡りではありませんか?
自我は自我を超えたものの照射によって明るみになり、そこで限界を示されることにより、超え出たものを示されるのです。
魂の目覚めとはお光によって自己が射抜かれることと言ってもいいです。
よく禅などで”見るものと見られるものは一つ”と言われますが、それは見ている対象と自己が一つになるという事より、根本的な事は自己を超えた光に照射される(見られる)と、自己がそのものと一つになるという事でしょう。
それは自己が自己を超えようとする先に、自己を超えたすべてを見通す眼差しが向けられている、という事なのです。
それはもとより、自己を超えたものへの祈りにより開かれるとしか言いようが有りません。
人間には自覚している、いないに関わらず本来、その魂のみ親と結びつくという希求が有る筈なのです。
それは子としては、親を慕い求めるようにそのように促されるのですが、親として、あちらからハタラキかけるものというのが、浄土仏教で、本願と言われているものだと思います。
何も本願について言い伝えられていることを宗旨だからと言って、やみくもに信じてもしょうがないと思います。
本当に自己の内なる求めてやまない願い…この催しはそもどこから来るのか…このことをいい加減にして人任せの信仰に立てこもっても、生きたものにはならないのではありませんか?
他力本願にも表と裏が有るのです。



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初めにハタラキありき

2016-02-06 16:44:53 | 現臨、ハタラキ
「初めに言葉ありき」
とは、あまりにも有名なヨハネ伝一章一節の言葉ですね。
聖書に限らず、こうした言葉というのは、そう書かれているからただそう信じる、という事で無しに、自分自身にとってそれがどういう関わりが有るのか、ということに留意することが大切だと思います。
そうすることで、その言葉は今もなお生きている、クリスチャンが好んで言う”生けるみ言葉である”という事が明瞭になってくるでしょう。
この言葉というところは古い訳では、という文字が当てられていました。
「初めに道ありき」です。元々はギリシア語のロゴスの訳です。
「言葉(道)は神と共にありき」と続き、創世記などから創造主なる神がお在し、”光あれ!”と言葉を発して万物を造り給うた…とイメージしてしまいますね。
そう言われたら信じたい人は信じるっきゃありませんよね。
つまり、万物の創造は、想像に任せるっきゃない…って事になりそうです。
何度も触れているように私は、それが何であるかは分からないが、自己を超えてハタラくあるものというものを認めています。
言葉で言い表せないけど、それは神的なものだとうっかり言ったりします。
これはしかし、私がただ聖書などで言い伝えられていることを信じた、物心ついた時からイメージされていることを想像して、そのように表明しているのではありません。
私はある言葉を超えた力、ハタラキ的なものに捉えられたことを通じて、その事を実感させられたのです。
でも、そこに創造主というような、実体を持った神様というものは認められませんでした。こういう表現というのは、有る信仰の対象としての神を信じている人からは、全く信じるに足りない話と受け取られるでしょうが、私にとっては信じざるを得ない話です!
何故ならば、それは今生で感じたことが無いくらいリアルだったから…それは生命それ自体だったから…
創造主のことは分かりませんでしたが、ハッキリ感じられたのは今もリアルに創造してやまない生きたハタラキ(としか言えないあるもの)のことです。それは想像を絶してます!
”神は七日間で万物を造ったのか? いいや、現在もなお創造の真っただ中であろう…”(ベルジャーエフ)
ロゴスは古代ギリシアでは、理性などとも解されていたようですが、ヘラクレイトスによればであるといいます。
”万物は流転す”という有名な言葉はこの哲学者によるらしいですが、彼は実に動くもの、生成するもの、つまりハタラキ的なものを根源原理と観ていたのです。
火…霊…点火させるあるものですね。我々人間初め多くの生物は呼吸によってその生活がもたらされます。
空気のみではなく、より根源的には生気というものが与えられています。ギリシア語のプネウマ…これは霊なるものでもあるとされます。
ロゴスである火はこれと結びついているのでしょう。
遍満しているハタラキが、この世界に自己限定して顕現してくる…絶対なるものの自己限定を想起させます。
初めにこのもの、ハタラキあって、有るのか無いのか分からない、思い描いたものよりもっと根源的なリアルな我々の天地が始まるのではないでしょうか?
昔の日本人は、こうしたことを知ってか、タオを思わせる「初めに道ありき」と訳したのでしょうか?
言葉は今もハタラいているあるものを伝えてこそ、み言葉なのです。

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