人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛ある道

2017-08-20 17:02:54 | 
"宗教やスピには様々な教え、メソッドがあって、どれが正しいのか分からない..."と思った人も少なくないでしょう。
"神は、真理は一つ"ということを、いろんな人が違うことを言ってたりする訳です。(笑)
そもそもこんなに違う道があるということは、人各々に道があるということ、あなた自身と離れてはどこにもそういうものは無いということに気が付くのではありませんか?
それでも他の縁も借りなければならないこともある...人生には、よそから学ばなきゃならないことも、迷いもありますからね。(この"借りる"ということが大事なんですi)
では一体何を基準にしたらいいのでしょうか?
"家族や知り合いがこれがいいと言っていた" から...
"霊界や異次元、前世、未来、超能力...自分の関心、好奇心を満たしてくれる" から...
"こうすれば悟れる、真理が分かると謳っていた" から...
"科学的見地からみて正しいと思われた" から...
"それを身に付けたらハクがつく" から...

私も直接、間接問わず幾つもの教説、道を...多分知っている方だと思います。(それは別段、どうということもないことですが...)
思えば...色々な違う教え、道が来ては去って行った、という印象しかありません。
しかし...ずっと身に覚えているように、私に息づいているものはあるのです。
そのすべてに私は"愛"というものを感じていたのです。
愛、相依り、相寄り...理屈抜きに惹き付けられてしまうものです。そういうものしか残っていないのです。
それらはもはや特定の教えとか道とは言えません。
それらに置き換える事も、あるいは可能かも分かりません。
しかし、そうなった時、その愛から別のものに変質するでしょう。
逆に言うと、教えというものの装いを持ったものに、愛に捉えられてしまうこともあるかも分かりません。
愛には、本来"この教え"とか"あの道"といった区別などありません。
理屈抜きに惹かれるものに二つは無いのですから...
借りているもの、その表れたものは、いくつあっても全的に感応している私は一つしかないのです。
それは、縁をお借りして、借り物でない、全一なるもの、神的なものに出会わせられる、と言ってもいいでしょう。
如何に多くの人は、宗教、スピに取り巻くきらびやかな言葉に幻惑されてきたことでしょう。
それに数多の思惑が引き付けられるのです。けれどそれを捉えようとしても少しもこの身に、内奥にズシンと響いてきません。
自分とその教え、道が一つにならない感じがするものです。
思惑も、その求めた対象も容易くあなたを裏切るでしょう。
あなたが感じている最高のものとは、必ずしもあなたが最高のものと"思っているもの"とは限りません。
あなたの思惑でなく、ハートに聞いてみたらいいのです。
これは何かの基準になるものではないけれど、その道に愛が感じられたら、もう選択の余地など無いのではないでしょうか?
これは対象となるその道があるというより、そうなっている自分を離れて道など無いということでしょう。
ハートからなるもの、愛は決して裏切らない...






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スピリチュアル雑感

2017-08-18 12:28:12 | スピリチュアル?
気が付けば、もう600件以上も記事を書いてきています。
モ少し読みやすいように、カテを整理しようかなと思いつつ、当初は"スピリチュアル"のカテで書こうと、当然のように考えていたのを思い出しました。
ところがその周辺のブログときたら、もう多く覚者、グルー、ライトワーカー、ヒーラー気取りの、妄想を掻き立て、予見、定見に満ちた言辞の押し付け、そこに商魂だくましさも加わり、そっちの世界に誘導するようなのばかり...こっちのザワザワ感、偏頭痛が半端ないという始末なのでした。
こういう渦には絶対巻き込まれたくないと、そういうカテで書くのに抵抗を感じていたのです。
かようにスピ界隈というのは(精神世界というカテがそのままその通称に移行した感がありますが)、きちんと整理、棲み分けがなされないまま、増幅されてきたようです。
スピリチュアルという言葉は、元々はキリスト教から来ているらしいです。
人の思い、力を越えた霊なるもの、聖霊、超自然的なもの(私の力で...とか空想、妄想とは関係が無さそうです)を言い表しているのです。
それは又言葉を超えたものです。つまり、私がずっと表し、伝えたいことだったなのです。
現実遊離の空想事でなく、この現実よりもリアルな現存へと導かれる...これがスピリチュアリティというものではないですかi
今までこうしたことを"哲学.思想"のカテで書いてきましたが、英語などの意味でも我々の精神こそはスピリットなのですi
スピリチュアルなものに源泉を持たない哲学などは無く(あっても意味など無い)、妄想に駈られ、定見に囚われるところに生きた精神など見出すべくも無いのですi(ベルジャーエフの口癖)
スピリチュアルは、今日では、心霊的なことと結びつけられることが多いようです。スピリチュアリズムと言ったら、もろ心霊主義ですね。
それによると"霊には色々あって、聖霊、守護霊などは善霊、浮遊霊、動物霊は悪霊"などと分類されるようです。
私はしかし、この両者には根本的な相異があるように感じています。
大体人の思いを超えたものが、何でそういう範疇で容易く語られ、容易く受け入れられてしまうのでしょうか?
色々な霊が居るように思われ、又それに相応した階層があるように思われるのは、正しく思いの中のことであり、悪霊、邪霊とかいうのは思念体といったものではないでしょうか?
本来のスピリットというものはこういう範疇を超えているはずなのです。
そして、それは我々の内なるスピリットと切り離されるものではない...切り離された時、思いは遊離し、思念がさまようでしょう。
という具合で、スピリチュアルなものと哲学はつながっているのです。
しかしまあ...気が付けば、何でもかんでも哲学.思想カテになってしまいました。
そこでブログを書いてる内に、自分なりに感じたスピリチュアリティをここいらで表してもいいかと思って、そこから分離させて新たにこのカテを設えて移行してみたら...何でもかんでも"スピリチュアル"になってもーた (笑)
これも根底であらゆるものとつながっているので仕方ありません。
それが表に顕わになるには分離が生じるもの...近い内にモ一つ分離があるかもしれません。急用が出来たり、メンドくさくならなければ...

ところで、このブログで新たにこのカテを設えたのですが、既に"雑感"というカテもあります。
今日の記事はどっちにしたらいいんだろう? どっちでもいい...カテなんてのは...今までもそうだったように...要するに気分の問題です...。

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イヤーな予感

2017-08-16 18:41:40 | 雑記
山中が負けたi

こういう日というのは、必ず来るものとはいえ...あんな結末になろうとはi
それにしても一時代を築いた名ボクサーが王座を陥落する時は、何でいつもメッタ打ちにあってしまうのでしょうか?
36年前の具志堅用高、7年前の長谷川穂積の最初の陥落、昨年の内山高志...昨日テレビ観戦してて、これらのシーンがオーバーラップしてきました。(渡辺二郎?...居たねえ...彼の場合は、惜敗でしたが、王座でない何かをも失ってしまったようです)
しかし、一度もダウンも、レフェリーのカウントもありません。山中も深いダメージを負っているようには見えなかったが...
"セコンドのタオル投入は早すぎた、暴走したi"という議論も起きてるようです。
いや、それはあったにせよ...途中までは、有効な作戦を伺わせたのに、何故クリンチしない?
挑戦者のネリーは、過去の挑戦者の中では、ダルチニアンに似たスタイルと言えます。
後者の方がずっとワイルドで、突拍子のないところからパンチが飛んでくる...山中はフットワークを使い、闘牛士のように、この猛牛をあしらっていましたが、天性の勘なのか、防御の上手さに私は舌を巻いたものです。
ネリーは、もっと"見えやすい"ように素人目ながらも私には映りましたが...
その防御面が最近は影を潜め、不用意に被弾を許してしまうのが気になっていました。
しかし、山中ももう34歳...動体視力、反射神経、足腰の衰えがあって当たり前だったのです。
ある外国のトレーナーはこんなことを言ってました。
「ディフェンスというものは、年齢とともに衰える。本当に防御の上手いボクサーとは、その技術を身に付けているのだ」
古くは"アンタッチャブル(触れることの出来ない)".ニコリーノ.ローチェ、パーネル.ウイテカー、最近ではフロイド.メイウエザーなどがこれに当てはまるでしょう。
身体能力の衰えをカバーするには、技術をも一度磨くか、老獪さを身に付けることでしょう。
老獪さ、セコさ...ああ...何でクリンチしない...
ああいう選手は、相手のツボを作らなければいいのです。そうしないとカサになって畳み掛けてきます。
一発、一発は大したことなくても、どんどん積み重なると、いつの間にかがんじがらめの相手の蜘蛛の巣にハマってしまうのです。
密着するか、離れればいいんですが、足が使えなければ、ピタッと密着すればいい...
相手の攻撃に飛び込んでいくようで、勇気がいるかもしれませんが...
そうして相手の攻撃を耐えながら、好機を伺い、一瞬の隙をついてとっておきの神の左を見舞う...と。
つらいのは、どんどん重なるものだけど、解放されるのは一瞬のこと...
(何の話?...ボクシングに決まってまんがなi)
こういうことが、そっくりそのまま裏表で相手にも当てはるんだから、ボクシングはコワイですね。隙があったんだと思います。
強敵モレノを倒し、ここんとこKO勝利に拘っていたのでは?
初回から狙っているところが伺えてイヤーな予感がしてました。
我が国のボクシング界にも新しい名ボクサー候補も表れ、流れも来ている...
今日は記者会見で敗戦に納得出来ない様子も伺われました。
内山のことがダブります。
昨日は本来予定があって、生でテレビ観戦出来なかったはずだったのです。("観なきゃよかった"ってこと何度あったことか...しかし、観なきゃならないのがサガってもんです)
10日位前に前に急に変更になったのです。その頃から何だか真夏っぽい天候が一変して雨模様に...
イヤーな予感がしてたんですってi





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協会から離れて

2017-08-15 14:23:01 | 秘教、その他団体
私は少し前に、大調和協会の命位様は、その半生について書かれたものは、残されていない、というようなことを書いてしまったのですが、これが実は、ところどころ欠落したものながらも存在していたのですi
命位様帰神の一年後の平成9年春、協会から出された「天之命、地乃身」という追悼文集の中に載っていたのです。
私はそういう書物が送られてきた記憶はあったのですが、その文章を通読した記憶は全くありません。
もしかしたら、手にとって見たこと自体、ごく最近になってからだったのかも分かりません。そして初めてそれを読んだのでしょう。完全に念頭から離れてしまっていた次第なのです。
ところで、この文集には、"おや、私の命位様への追悼文というのは...無いi" それもそのはず、そういう依頼は受けてない...別にそれに対して特別な感情など無いが...命位様帰神の直後、協会の後継者のM先生に気持ちを伝えた手紙を送った記憶はあります。(あれが追悼文の代わりになるには、あまりにも、その...揮発性、アクの強いものだったでしょうか?)
この事情は"私は本当に協会とは、疎遠になってしまっていた"、ということを伝えているのです。
あの平成4年春の神戸集会での私の"爆発炎上"以来、私と命位様、協会には容易に埋められない溝が出来てしまったのでした。
これは、それが切っ掛けで、ずっと私に内包していた、横たわっているものが顕在化したことに由るのです。これには言わねばならないことが沢山あるのですが、その壁の突破に向けられたこと(実際一瞬でしたが、突破されたのですi)からそんな事態になってしまったのですi
理屈は色々付けられますが、現実問題として私の協会に向けられていた通路は塞がれてしまったのです。
唯一の理解者(だと思っていた?)命位様にも、今まで通りのように接することが出来なくなりました。
これも全て私が原因だった...何て言ってみたが...言い訳がましいですが、そういうことで片付いてしまうことが、協会的、大聖業(おおみわざ)的解決になるとは全く思ってません。
実際、こちらでも、あちらでもない、自他両成(りょうじょう)のハタラキ無しにはどうともならないものだったのです。
このままずっと障壁となるものを抱えたままで居られるはずもなく、これは唯一人、命位様と全身全霊をもって向き合わなければならないと思っていた矢先..."ああ...協会への道はなんと遠く、そこには厚い壁が横たわっているのだろう..."
「命位様の容態が悪い」という知らせを受けてから、突然の訃報を知ったのは、なんとあっという間だったことだろうi
"私はなんでそもそもこの関西の地に居るのだろう...こういうものを頭に描いていたはずだったが、求めて止まなかった普遍調和世界の現成に自分のまるごとをぶつけようとしたのではなかったか..."
"もう、どうでもいい..." 自分の中から何もかもが抜けて、スカスカになったような感じでした。
命位様を失くしてからは、完全に協会とは疎遠になりました。
私は成行でなったにすぎないのですが、一応所謂"同士"と言われる協会での位置付けの最後の者でしたが、それは謂わば"旧体制"の最後ということであり、私が知らない内に"新体制"が始まっていたのです。
ところで、この文集を読んでいる内に、私はある人のことを突然強く思い出されました。
その人とはほとんど親しく交流したことが無かったのですが、長く協会に奉仕されていた、元トーフ屋さんのMさんのことです。
トーフのように、ふにゃふにゃと柔和で、寡黙な人でしたが、その人が追悼文の中で命位様と交流を通じ"おおみわざ"に触れ、所謂回心体験に預かったことを「今までの自分とは全く違ってしまったのです」などと書いているのです。
この人が私の先の件について「僕は分かっているよi」というようなことをポツンと言われたことが突然思い出されたのです。
それから私が疎遠になって後の平成10年夏(この時分、私にジンジンした感覚がよみがえっていました)、久しぶりに協会に参った時、この人から命位様がされたように、ぎゅっと握手をされたのです。
その時、命位様から受けたように、言葉を越えた、ある種の感応を受けました。
私は唯一の理解者は、命位様しか居ないとばかり思っていたのですが、もっと本気になって見付けようとすれば、近くに見出だされたかもしれません。
人生には後悔はどうしたってあるものです。
あれが、どうなってたら、とかこれさえなければ、とか...
しかし、その多くは本気で向き合わなかったことではないでしょうか...。
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不変の真理、普遍の顕現

2017-08-14 00:14:11 | 詩的文章
キリスト者は言う...
"それは間違いですi"
キリスト教的立場から、福音的、聖書的、唯一神教的、旧教の、新教の立場...
彼らの依拠する各々の正統的立場から外れたものは、間違いであるらしい
仏教者...小乗的、大乗的、他力門的、西派、東派的...各々の立場...
飽くことのない、おのが立場への固執
幾重もの思念の集積
何か、そこに予め定められたものがあるらしい...
静止したものを捉えて、何か御大層なことが分かるらしい...
キリストも、シャカも伝えていなかったような真理が...
これがキリスト教の、仏教の、宗教の真理というものらしい...
この書かれた、語られた、動かない真理から外れたものは...
一体、何だというのか...

不変の真理の砦の外で、千変万化する動くもの...生命、ハタラキ...
書かれた文字から生きたものが現存してくる
幾年も封印された石板に普遍の光がよみがえる
あまねく貫く光..原初より生き通しの命...
この光、命にあってキリストも、シャカもよみがえる
普遍の中で一つに...

キリスト教というものがあると言う
仏教というものがある言う
諸々の宗教というものがあると言う
宗教を越えた別の何かがあると言う
普遍の中では、別々に分かたれたなにものも無い
一色に、いっしょくたにされたなにものも無い
一は、一のままで全てに通ず
全一なるものがあるだけ...
このものが顕わになる時、部分的表れはあり得ない
普遍なるものの顕現
自己に顕わになる時、自己も客観も無い
全一なるものがあるだけ...

真理の探究はもういい
悟りの道ももういい
今は全一なるものが顕わになるだけだから...










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