"宗教やスピには様々な教え、メソッドがあって、どれが正しいのか分からない..."と思った人も少なくないでしょう。
"神は、真理は一つ"ということを、いろんな人が違うことを言ってたりする訳です。(笑)
そもそもこんなに違う道があるということは、人各々に道があるということ、あなた自身と離れてはどこにもそういうものは無いということに気が付くのではありませんか?
それでも他の縁も借りなければならないこともある...人生には、よそから学ばなきゃならないことも、迷いもありますからね。(この"借りる"ということが大事なんですi)
では一体何を基準にしたらいいのでしょうか?
"家族や知り合いがこれがいいと言っていた" から...
"霊界や異次元、前世、未来、超能力...自分の関心、好奇心を満たしてくれる" から...
"こうすれば悟れる、真理が分かると謳っていた" から...
"科学的見地からみて正しいと思われた" から...
"それを身に付けたらハクがつく" から...
私も直接、間接問わず幾つもの教説、道を...多分知っている方だと思います。(それは別段、どうということもないことですが...)
思えば...色々な違う教え、道が来ては去って行った、という印象しかありません。
しかし...ずっと身に覚えているように、私に息づいているものはあるのです。
そのすべてに私は"愛"というものを感じていたのです。
愛、相依り、相寄り...理屈抜きに惹き付けられてしまうものです。そういうものしか残っていないのです。
それらはもはや特定の教えとか道とは言えません。
それらに置き換える事も、あるいは可能かも分かりません。
しかし、そうなった時、その愛から別のものに変質するでしょう。
逆に言うと、教えというものの装いを持ったものに、愛に捉えられてしまうこともあるかも分かりません。
愛には、本来"この教え"とか"あの道"といった区別などありません。
理屈抜きに惹かれるものに二つは無いのですから...
借りているもの、その表れたものは、いくつあっても全的に感応している私は一つしかないのです。
それは、縁をお借りして、借り物でない、全一なるもの、神的なものに出会わせられる、と言ってもいいでしょう。
如何に多くの人は、宗教、スピに取り巻くきらびやかな言葉に幻惑されてきたことでしょう。
それに数多の思惑が引き付けられるのです。けれどそれを捉えようとしても少しもこの身に、内奥にズシンと響いてきません。
自分とその教え、道が一つにならない感じがするものです。
思惑も、その求めた対象も容易くあなたを裏切るでしょう。
あなたが感じている最高のものとは、必ずしもあなたが最高のものと"思っているもの"とは限りません。
あなたの思惑でなく、ハートに聞いてみたらいいのです。
これは何かの基準になるものではないけれど、その道に愛が感じられたら、もう選択の余地など無いのではないでしょうか?
これは対象となるその道があるというより、そうなっている自分を離れて道など無いということでしょう。
ハートからなるもの、愛は決して裏切らない...
"神は、真理は一つ"ということを、いろんな人が違うことを言ってたりする訳です。(笑)
そもそもこんなに違う道があるということは、人各々に道があるということ、あなた自身と離れてはどこにもそういうものは無いということに気が付くのではありませんか?
それでも他の縁も借りなければならないこともある...人生には、よそから学ばなきゃならないことも、迷いもありますからね。(この"借りる"ということが大事なんですi)
では一体何を基準にしたらいいのでしょうか?
"家族や知り合いがこれがいいと言っていた" から...
"霊界や異次元、前世、未来、超能力...自分の関心、好奇心を満たしてくれる" から...
"こうすれば悟れる、真理が分かると謳っていた" から...
"科学的見地からみて正しいと思われた" から...
"それを身に付けたらハクがつく" から...
私も直接、間接問わず幾つもの教説、道を...多分知っている方だと思います。(それは別段、どうということもないことですが...)
思えば...色々な違う教え、道が来ては去って行った、という印象しかありません。
しかし...ずっと身に覚えているように、私に息づいているものはあるのです。
そのすべてに私は"愛"というものを感じていたのです。
愛、相依り、相寄り...理屈抜きに惹き付けられてしまうものです。そういうものしか残っていないのです。
それらはもはや特定の教えとか道とは言えません。
それらに置き換える事も、あるいは可能かも分かりません。
しかし、そうなった時、その愛から別のものに変質するでしょう。
逆に言うと、教えというものの装いを持ったものに、愛に捉えられてしまうこともあるかも分かりません。
愛には、本来"この教え"とか"あの道"といった区別などありません。
理屈抜きに惹かれるものに二つは無いのですから...
借りているもの、その表れたものは、いくつあっても全的に感応している私は一つしかないのです。
それは、縁をお借りして、借り物でない、全一なるもの、神的なものに出会わせられる、と言ってもいいでしょう。
如何に多くの人は、宗教、スピに取り巻くきらびやかな言葉に幻惑されてきたことでしょう。
それに数多の思惑が引き付けられるのです。けれどそれを捉えようとしても少しもこの身に、内奥にズシンと響いてきません。
自分とその教え、道が一つにならない感じがするものです。
思惑も、その求めた対象も容易くあなたを裏切るでしょう。
あなたが感じている最高のものとは、必ずしもあなたが最高のものと"思っているもの"とは限りません。
あなたの思惑でなく、ハートに聞いてみたらいいのです。
これは何かの基準になるものではないけれど、その道に愛が感じられたら、もう選択の余地など無いのではないでしょうか?
これは対象となるその道があるというより、そうなっている自分を離れて道など無いということでしょう。
ハートからなるもの、愛は決して裏切らない...