人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

何もしなくていい?

2018-01-05 12:48:08 | 求道、探究
私はいつも例えば、"現臨に捉えられる"とか"恩寵に預かる"とか"人生の裏側に入り込む"ことなどに触れているのですが、ではそれにはどうしたらいいか...その方法については明言してないのです。
まず、私は教師でもなんでもないので、そういうことを提示する義理も必要もありません。
しかし、まあ読まれる側にとっては、随分とりつくシマのない思いをもたれるかもしれません。不親切かもしれません。
それでも私は自分自身の歩んできたこと、感じていることをありのままに表していくことが、自分自身にも皆様にも誠実な在り方だと思っています。
それに従えば"特定の方法に依拠してこなかった"、というのが適当な言い方なのです。
いくつかの道において、それらしきものの縁というものはありましたが、特定の...というものに帰されるものではないのです。
じゃ、それは何もしなくてもいいのか?と言ったら全くそうではありません。
いつもいつも分かる人には分かるようなことを言っているのですが、その求めるものに"意識を向ける"、"意識的になる"ということは、絶対的に無ければならないことです。でなければ何も現前してきません。
メシの食べ方ばかり覚えていても、その気が無ければいつまでもメシにありつけることが出来ません。
非二元、悟り系の教師の中には、"人は皆既に悟っているのだから、悟っている個人も居ないのだから、求めることも修行も必要無い"などと平然と言っている向きもあるようですが、そこには自分自身がどうあって、そんな超然とした言辞を表すに至ったかということが抜け落ちているのです。
意識が向くという...自覚の有る無しに関わらず、それを求める何かが無くしてそういうことにはならないでしょう。
その何かがこちらに発心というか、求め心を呼び覚ますとも言えるのです。
そして、私はその何かに"捉えられる"としばしば言っているように意識的に、理屈無しにそのものに向かわざるを得なくなってしまうことを伝えています。
こういうことは、確かに特別"何かをする"ということとは言えないようなことではありますが...
精神的な道のある契機には、求めることを手放す、手放さざるを得なくなることもありますが、それは求めるということがあるからこそ分かることでしょう。
これは修行の道において特に言えることでしょう。
私は自分がそういう道を歩んでこなかったからと言って、お節介にも必要無い(あまりにもトラワレた様を前にした場合などで言ってしまうこともあります)などと決めつける気などありません。そういう縁の者も居るのです。
その修行方法そのものが、直接目指していたものと結び付くか、どうかはともかく修行の過程で気付かされることもあることでしょう。
自己を超えると言いますが、自力修行のようなものでもそれに精進していることで、自力の限界というものが分かるのかもしれません。
又、"人は既に悟っている、悟っている個人も居ない"ということも、そうには違いないのでしょうが、それは思いの世界でそうした言説を信じ込んで、分かったつもりになることとは全く違うことです。
意識の表層で、その深層に在ることが理解されようはずなどありません。
(しかし、実際に"意識に隠れていたものが表に顕わになる"という経験が無くとも、精神の内奥にそうしたものが息づいていることは、分かる人には分かります)
"既に悟っている"とか"そういう個人が居ない"とかを知らされる契機無しには分かりようがないのです。
こうした頭だけでそのつもりになることほどのギマンは無いと思います。
修行とか何もしないでも目指すものに預かれるかもしれません。
しかし、何も無しで...そのもの無くして目指しているあなたも、ここで生きているあなたも無いのです。
私は特別な方法というもので無しに、一つ"祈り(特別な祈りではない"というものが精神的な歩みに関わっていたことを伝えていますが、それは...
意識がそのものに向かう→そのものに捉えられる→交わる
という何もしなくていいが、何かが無くてはならないプロセスを内包しているものなのです。
(余計、伝わりにくかったかもしれない)



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表と裏の引き寄せ

2018-01-03 15:18:38 | 意識、照明
昨年の最大の私の"メッケもの"は、年末に神保町の中古レコード屋さんで買った、南米エクアドル出身のラテン.トリオ"ロス.エムバハドーレス(Trio Los Embajadores)"のLP盤でした。(似たような名のアーティストはペルーにもチリーにも居るが、これは正真正銘i ここ数年ずっと探していたものです。多くの読者には、全くちんぷんかんぷんな話で、ただの自己満足にすぎないことなのですが、このトリオの音楽は今フツーにユーチューブで、"A Unos Ojos"だとかの曲を視聴出来るi "このエもいわれぬ味わいi 伝えられないi どんなに伝えてもあなたには現前してこないi これは私だけの貴族的楽しみなのダi ふっ、ふっ、ふっ..." なんてセリフはもう、通じないのです。隠れていたものが顕わとなる、何ともオソロシイ時代になったものです)
私は神保町に着いた途端、ある予感が過ったのでした。
"もしかしたらあっこでメッカるかもしれない..." いわゆるコレクターの人なら一度ならずそういう経験があるでしょう。
あたかも手には入るように決まっていた ...予定調和のように、そうなってしまうことが ...
私には昔からこういう事はしょっちゅうあるのです。(今はあまり集めようという意欲は無くなってきてますが ...)
こういうのは、私はその関連の本は一度も読んだことありませんが、ひと頃流行った(今も?)引き寄せの法則とかで説明されるようですね。
そういう法則があるのかどうか分かりません。又当然のことながらそれに関した、アファメーションだとかのメソッドを駆使したこともありません。
だってね、"では、これから始めますi"みたいに構えたようなことせんでも手に入ることになってんですから(!)...
絶対的に言えることは、その求めているものに意識が向けられていなければ、そういうことにはならないということです。それが意識的になるということです。
といって、"意識を向けねば ..."、"意識的にならねば ..."なーんてことは、全くズレた話で、こういうことは意識が向いたからメシが食えるよな当たり前のことです。(法則など知らんでもメシは食える)
意識が向けられると、これは微妙な言い回しですが、フツーに言われるイメージとも違うような...ある漠然としたものでない、具体的(具体的に実感出来ることを言っています)な心像が現前します。
いや、逆にそれがあるから意識が向けられるのかもしれません。
これは言うまでもなく、物質的現実での話ですが、"いつもそんな風に意識の有り様のままに必要なものは手に入れている"、なんてこたあり得ない訳で、実際には半分、いやそれ以上に人生は思い通りに行かないものですね。
何でこういつも、私はひもじい思いをして生活しているのか?
よくよく考えてみれば、先のようにアリアリとした、リッチな生活の心像が顕わになってこないのです。
又、逆に恐れていたことが現実になるということはよくあることですね。...例えば急に便意を催してきて...とかね。
こういうことは、リアルに心像に浮かぶものです。
良い思いを発していれば、良いことを引き寄せる、とかその逆パターンとかあるらしいですが、思うこと以前の意識の有り様というのは、そんな簡単に行くことじゃありません。
そうなっていれば、この世はとっくの昔に地上天国です。
又相対的現実では何が良くて、悪いかということも単純に決められないものです。
トイレに一万円札が落ちてるかも分かりませんしね。
実は先のポッと浮かんだりする心像の奥には、そうした表面的な良し悪しとは関わらない、その出所とおぼしき言わば"原心像、原心象"のようなものがものが息づいているのが分かります。
これがもたげ出してくると、引き寄せるというより引き寄せられるという感じになります。
人生の悲喜こもごもの劇は、そこで脚本が描かれているのかも分かりません。
この脚本家は宇宙的全体のようなものじゃなく、個別に居る気がします。
そして、そこに描かれていないものは、心像に現れない、勝手に表へは出ない、事象として起きないのかも...
私はドタバタ演じさせられている身分なので分かりませんが ...
ただ、引き寄せられるものに委せていると、見えざる脚本家の気持ちも伝わってくるようです。


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新年におろがみて

2018-01-02 10:30:50 | 日本的霊性
新年明けましておめでとうございます。
紺碧の空模様に恵まれた元旦でしたが...
私は朝から"フン"だりけったりでして...到底恥ずかしくてくわしい話など出来ませぬi
アレを我慢することが出来なくて、理性も何もかもが吹っ飛んでしまい、ついにゴール寸前で事が及んでしまったのでしたi
あの、真面目そうな、このところスッカリブログのアップの頻度が落ちていて、今年からボチボチ増やしていきそうな、悟り系人気ブロガーさん(このヒトは既にひと頃その界隈で連日のように筆、いや指を奮っていたのです)じゃないけど、"ウンコクサイ"ことになってしまったのですi
人間年取るとアチコチの筋肉は緩むは、堪え性は失せてくるわでメンドクサイ事が多くなるけど...ああ、情けなや...

これと言うのも、初詣で近くの神社で長蛇の列にそれを我慢して並んだためです。
お腹の辺りがゴロゴロとアヤシイと思ったら諦めるのが肝心です。
それでも私はそういうクサイ脱線はあったものの、めげずに毎年恒例の氷川神社三ヶ所を廻りました。
悟り系スピなどでは、神社参拝など見向きもしない人も居るでしょうが、私はする時はします。
それはまあ、儀礼の一環ではありますが、この"表側"の世界では、意を体で表すという、形に乗っ取った礼拝の意義もあるでしょう。
これは神道では顕斎に当たるのですが、夜は形なき礼拝、幽斎みたいなことをしています。
最近やたらとクエーカー教徒じゃないけど、ブルブル上下左右に"震え"が発現します。(神道では"ミタマフリ"と言います)
きっと、知らず知らずに心身にストレスが溜まっていたのでしょう。
公的な場では、こんなことは出来ないですが、私はいつの頃からかパンパンと形式的な参拝をしていても、あのジンジンとしてくる内的な感覚が伴ってくるのがフツーになってしまいました。
形ある礼拝では、神は自己の外なる対象としておろがむということをする訳ですが、そういう象徴的な思念に意図的に乗っ取るということと、意識の有り様がその客体の方に結び付き、とらわれてしまうということとは全く意味合いが違うことです。
(後者の場合は内なる生命の発露を閉ざすことにつながります)
対象としての神と内なるものとは別々のものにはならないのです。
そして私は、特に昨年神的なものが他者として意識せられた時に、よりそのものと一体のものとして実感されることを示されました。
逆説的ですが、この一体感は例えばこの思われた私が、スピ系で広められているように"神はわが内にお在す、私は神と一つ"と信じ、思い込もうとすることで断ち切られます。
よく考えてみれば、それは思いを超えてハタラクものを、思いの中で思いをより強めていくようなことだからです。
まず、我々は"思いの中に居る"ということに気付かなければ何一つ始まってこないのです。
そして、"始めに神、ロゴスありき"、 生ける命を召喚せねば話になりません。
神道の祭礼には、そうした内なる意識の在り方を象徴的に表しているのです。
思いから離れるには、それが向けられるサムシングが必要なのです。
その神的ハタラキというものは、こちらがそうしようとする意志より先に、向けようとする先に、向かわしめられてしまうものなのです。
この根源的力の前には、"トイレを探そうとフン闘する意志"などあまりにも間に合わず、無力です。
神を他者としておろがむ心は、我々の留まることを知らない蒙昧なる思い上がりの抑制に通じているのです。
これは倫理の問題でなく、神人の親子の如く一体たらんとする"かんながらの道"の手振りそのものと言えるでしょう。
("ウンコクサイ"さんの兄貴分のAさんも最近はノンデュアリティが行き詰まったのか転向した?ようです)

かんながらたまちはへませ





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