人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

過去は思われたものではない

2018-01-12 17:16:11 | 雑感
"あの頃は貧しかった...
いつも電車代を浮かそうと歩いていた。
「餃子の王将」でライスだけを注文して、ただでもらった「餃子券」で「餃子定食」を食べていた。
まだ我々はあの半世紀ぐらい前のように感じる、夢のようなバブルなど知らなかった。
四畳半一間暮らしなど当たり前で、世相にも貧しいことがフツーに浸透していた。
あの頃は今よりずっと貧しかった...
現実に押し潰されそうになってもおかしくないのに...しかし
なんて充実していたんだろう..."

昭和55年の初春の頃、まだ大学生で前年秋から独り暮らしをしてたのでけっこう生活が大変でした。
日曜となるといつも小春日和になるので、都内の川辺りなどを散策していました。
電車代を節約するというより、歩くことが無性に楽しかったのです。
お金が無いのに必ず当時は普及してなかった「ドトール」系でない、「純」喫茶に入っていました。
そして気に入った本を読む...月に1、2冊くらいしか買えなかったのですが...
その頃からビンボー貴族みたいでした。
おそらくは人生でもっとも貧しい境遇だったと思われるのですが、精神的にはもっとも充実していたかもしれません。
誰だったかが言っていたか、何もしなくとも幸福が追いかけてくる感じでした。
その事を考えると本当に境遇というもので、人の幸、不幸というものは計れないものだと思います。
その充実感をアリアリと思い出すことが出来るのは、その時分、何度か意識の高揚というものがあったからです。
「うん、そうだ、あった、あった...」と過去を回想する訳ですが、そうして思い出しているはずが...いつの間にか、この現在に高揚感が蘇ってくる...
いや、それは常に過去を超えて現在につながっていることが知られます。
その事がもっと意識に浸透してくると"現臨に捉えられる"ということが起き、よりいっそうその"現在性"が示現してきます。
何も無くとも、その事自体が幸福なことなのです。
過去というものは、思われているように記憶によって過去形として作られるものばかりではありません。
生き生きとした充実した過去は、現在形として感じられるのです。
逆に今精神が生き生きとしていれば、過去のそうした時を鮮明に映し出します。
起きている事象はそれぞれ違っていても、時間を超えてつながって感じられるのです。
固定した記憶によって作られた過去は常に変わりません。
例えば忌まわしい過去はずっと忌まわしいし、思い出したくないものですね。
しかし、生ける現臨と共に向き合えば、忌まわしいと思われていた過去は塗り替えられるかもしれません。

こないだテレビで遅蒔きながら初めて「君の名は」を観ましたが、気がつけばアニメを中心にやたらと「タイムリープ」ものが流行っているようです。
"過去は思われた過去ではない"ことに意識が向けられていることの表れなのでしょうか?
















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神は居るのか?

2018-01-10 16:59:17 | 
神は居るのか?
私は姿を見たことが無いし、声を聞いたことも無い
見たり、聞いたりしなければ信じられないだろうか?
学生だった頃入っていた宗教で散々神について、
神を信じなければならないことについて聞かされた...しかし...
"僕が知っている神はこんなではないi"
私に始終こんな思いが内からもたげていた
教団での礼拝とは別に「僕だけの神様」への礼拝をしていた

"僕は人のことも世の中のことも信じられない...
けれども、何にも無くても僕は信じられる
他人から信じさせられるものは、他人のことにすぎない
他の神様ほど信じたくないものは無いi
押し付けられる信仰ほど神を愚弄するものは無いi
この不信仰は、嫌が応にも異端信仰を呼び起こさずにおれない...
信じる何かが無くても信じられるものは絶対なんだi"

神を信じたら幸福になれるだろうか?
神を信じたら世界は平和になるだろうか?
神を信じ、何かを行じたら悟れるだろうか?
幸福、平和、悟り...
得ようとする何かのための神信仰...
それが得られたら神は有っても無くてもいいのだろうか?
神は使われるものなのだろうか?
何も得られなければ、意味が無ければ信じられないだろうか?
何かを得られても私が居なければ何にもならない
その私...
私が居て、その私が神を信じるとか信じないとか...
思い思いの神が信じられる
神を否定することも出来るのだi
その私が幸福だとか不幸だとか平和だとか悟ったとか悟ってないとか...
私は私だけでここに生きてない

神は居るのか...
それを知るには...
私がここで生きているということだけで充分ではないか...
コメント (2)
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究極の道と愛

2018-01-08 12:26:55 | 
少し前に「エンライトさんは、亡くなられて無に帰したのか、無限地獄に堕ちているのか分からない」という旨のコメントを頂いたのですが、もちろん私にもそんなこと分かろうはずなどありません。
地獄というものがあるかどうかも分からないことです。
私は、それに対してどう返していいか分からないまま、テキトーなこと書いてしまいました。
「永遠に無に帰すことが、無限地獄に堕ちてしまうことなのか、どうか分からない、云々」と...いささか心無いこと書いてしまったかな、と気になったのですが、あくまでこれはどこまでも"分からん"ことなんです。
ただ、この時次のようなことが私の頭の中に過っていたのは確かなことです。
エンライトさんは、確か永遠の虚無に消え去るという、究極?の非二元の有り様には、所謂真我とか魂、神というものも無いという旨のことを述べていたかと思うのですが、そこにはあらゆる相対次元が超えられているので、苦難というものも愛というものも無いそうです。
真我に関して、私は便宜的にそういう言葉を使ってしまいますが、それは本来神や魂というものがそうであるように、輪郭も境位も無く実体など分からないものなのです(少なくとも私には認められません)。
これはあくまで、そういう実体無きリアルなあるもの(これは...これこそは"ある"のですi)に出くわした時、「今まで自分と思われた自分は本当の自分ではなかったi」という実感によって導き出されるものなのです。
言うまでもなくそうした事態というものは、自分の意志、力によっては到底預かることの出来ないものです。恩寵としか言い様のないものです。
そしてそこには愛、無条件の愛としか言い様のないものがすべてを満たしています。それ無くして、そもそもそういう事態は起こり得ません。
その愛はこの世のどこにも見いだすことの出来ないもので、"愛し、愛される"という関係性も無く、無機質なものを連想させる法則性といったものを完全に超えています。故に無条件なものが実感されるのです。
そこにこの世の愛のように、憎しみや不幸に転じてしまうような相対的なものは認められないのです。
こういう消息は多くのスピ.メッセンジャーが伝えていることですが、"個は無い、全体しかない"といった、究極の非二元的有り様を想起させるような説き方は エンライトさんが言うように適切ではありません。
いたずらに重要なものを欠いた 浮いた空虚感を漂わせるばかりです。
そういう実感もあれば、そう感じている"私がある"のも実感されるのです。その真実性を訴えようとするあまり、理に走ってしまうことで、"OOしかない"という、ある非二元ならぬ分離感が生まれるようです。
これはこの消息をもたらしている、愛自体なるものから切り離されることから来ると思われます。
愛にあることから、究極のナントカの境地、至高のレベルといったものに意識が移ってしまうのでしょう。
私は自分がそのものによってしか導かれ得なかったので、そのものに依らざる、"より高みへの道"というものは考えることも、感じることも出来ませんi
愛自体なるものは、見えざる導きと言ってもいいのですが、もしこのもの無しにその道に赴くことになれば、私には想像し難いことですが、個も全体も、真我、魂、神そして愛も無い永遠の虚無に帰してしまう他無いのかもしれません。
私の想像では地獄とは、神的なものから完全に閉ざされた自我的な思いが作り出すヴァーチャルな世界ということなのですが、それは確定した有り様でないので、ある契機でそこから脱け出すことが出来、あるいはその有り様自体が解消されてしまう事もあり得るのです。
では思いというものが超えられた次元で、神的なものからの分離(くどいようですが想像出来ません)という様態は、どういうことになるのか?
それは神も愛も無い魂の永遠の死のような消息でしょうか? 言葉は適切でないかもしれませんが、私にはそのことに無限地獄といったものを想起されたのです。
その真相はおそらく誰からも語られないものでしょう。
エンライトさんは、究極の非二元世界に赴いたらしいですが、生身をもって戻ってきた訳だし(これ又私には考えられないことです)...
そして二元的現実世界に即したハートへの気付き、魂の願望というものを強調してメッセージを発信するようになった訳です。
おそらくは愛というものの大切さに気付かれたのかも分かりません。
まあ、あっちへ行ってしまった訳だし、"遺稿"から汲み取るしか、考えても分からないことですが...そういうものは確かに感じられます。
非二元の世界を知った人間はそうならざるを得ないのかも分かりません。



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39年前の1月7日

2018-01-07 12:48:05 | 回想
私はこのブログで、39年前の初頭に一時意識がすぐ遠退いてしまいかねないような不安定な状態に陥り、やがて見えざる導きによってその苦境から脱すると共に、ジンジンと内的な感覚が芽生えるに至った、という経緯を何度も書いていますが、如何にも時系に沿って、そういう経過があったかのごとく書いているものの...どうもそれは私の思い込みであり、事実はしばらく周期的にその両側の状態を繰り返していたのが真相だったようです。
今朝ラジオで「今日の出来事」を寝ながら聴いていた時、電撃のようにその事がアリアリと蘇ってきたのです。
私は記憶力には自信を持っている方だと思っていて、「こりゃ、アテにならんわい」ということを思い知った訳ですが、それでも39年前その日にあったことは克明に覚えていますよi 思い込みで無ければねi?
(以下独白調)

その日は朝からその沈鬱な気持ちをさらに重いものにするように冷たい雨が降り続いていた。
全く外に出ようという意欲など沸いてこない。
何気無しに、買ったばかりの笹目恒雄(紅卍字会の重鎮だったが、この頃は組織から離れていた)著「神仙の寵児」を読む。
大本教出口王仁師からの伝えで、日本と中国大陸に跨がってのある秘密の経倫に携わるも、道中次から次へと魔界からの試みに遇わされる...笹目翁が辿ったような修道の人生は魔境との戦いの連続のようだ...頭の中はますます混迷してくる。
私は今その試みに出会わされている真っ最中なのだろうか?
気分を変えようと今度は、これ又買ったばかりの、前年に物故したシャンソン歌手ジャック.ブレルのLPレコードを聴く。

俺たちの心のときめきに合わせてパリまでが拍子をとっている 出来たらこのままでいたいな(華麗なる千拍子)
春だというのに死ぬのはつらいもんだ でも俺は花にかこまれて、幸せに行くよ(そよ風のバラード)

人生の希望と絶望、生と死とが交錯している...
全く何に心を向けていいのか、心がどこにあるのかも意識されないうちにただ時は過ぎていった ...
やがて日も暮れようとしている...
日が暮れる? ...だが、どうだろう、夕日が部屋の窓越しに差し込んできたではないかi
私はその日初めて光に預かったのだi 日照が終わろうとしている、その時に...
しかも、あれほど私の心身を縮こませていた気温がそれと共に急上昇したではないかi
外には鳥たちが囀ずっている...初めて私に新しい春が開けたようだった。
もうそれまでの自分がウソだったように、何かに押し出されるように外に躍り出ずに居られなくなった。
どういう訳だかただ歩いているだけで、どっからか無性に喜びが沸いてくる...
どこをどう行って、そこに辿り着いたのか全く分からないが、知らない商店街に来ていた。
中野新橋の界隈のようだ。その一角にあった中華飯店で食べた焼そばの旨さが忘れられない。
いつまでもずっとほっつき歩いていたかったのだが、テレビを観なければならないのを思い出した。
ボクシング、具志堅用高の7度目の防衛戦。相手はR.マルカーノ。一年半ばかし前のリマッチだが、具志堅の完勝意外考えられない。
予想通りのワンサイドに打ちまくってのKO勝利。
「描いた通りのボクシングが出来たしゅねー」(具志堅談)
"この兆しに乗るんだi 乗りなさいi 乗れなければ、乗らせてあげようi"
あれは私の思いの幕を超えて光が差し込んだか、どうかは分からないが、確かに沈み行く精神を変えようとする、あるハタラキを感じた最初の一瞬のようだった...。

それから約一月のあいだ、この上昇と下降の周期を繰り返していて、梅の咲く頃、抑えがたい高揚感の中で「もう、あの奈落行きの恐怖はやってこない」という確信が芽生えたのでした。



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言葉を超えて、言葉で伝えること

2018-01-06 12:21:30 | 哲学・思想
私は、随分とこれまでここで無謀にも、言葉で言い表わすことの出来ない世界について、自分の力不足を省みずに、言葉をもって伝えようなどと目論んでしまったことでしょう。
それらはどんなトーンで語られようと、借りもの、仮ものに過ぎないのは言うまでもありません。
私はしかし、幾度か哲学者や神秘思想家などが、その内なる心像で捉えられ、表現出来得る限界まで挑みつつ、有限なる言葉を借りてその思議を超えた世界の様相を語ってきたことに接して、言い尽くせない感動を覚えました。
"よくぞ、言ってくれたi"と...
そこに抽象的な哲学的思索の辿跡は感じられても、彼らの内面は既に思椎を超えた領域にあったのです。
主観的自己への、客観的対象への観察には、しばしば思考を超えた領域よりの光、イルミネーションの照射が差し込んだことでしょう。
哲学的省察とは、本来そこに向けられるものでしょう。
そこにこそ、所謂合理性と結び付かない"悟性"なるものの真実の意味合いが生きてきます。
この事を抜きにして哲学的パトスなどあり得ないのです。
パトスとは熱情、情感...哲学的思索の源泉は、詩的直感と一つのものでしょう。
詩人は心像にあるものを言葉に移し変え表現することが出来ます。
彼の世界の音信は詩的言語で言い表わし得ます。
例えば ...無条件の愛...
これはそうした実感の表明に違いありません。
"無条件とはどういうことか? 諸々の条件によって世界は成り立っているのに、無条件の愛とは如何に?"
理が介入した途端、無条件では無くなります。それは条件的に説明されるものでは無いからです。
"個というものは無い"、"全体しかない"、"ただ起こるものが起きているだけ"、というものもある実感として述べられるもので、私にも頷けるものもあります。
しっかし...そのことを量子力学まで借り、持ち出してまで世間にその正当性を証明しようと目論むなどi...
物理学者は皆"Aha"となるだろう...科学者が皆詩人だったら核兵器などこの世に生まれなかっただろう...
言葉を超えた世界と、言葉を使わなければならない世界との在り方、伝え方の混線した有り様...
切り離すことの出来ないものを片ちんばに切り取っての分離的非二元説法...
彼の世界のことは、非二元、二元、全体 多様 ...どんな括りで説明しようとしても、一面的なレッテルをそこに貼り付けた途端、そこで本当に伝えようとしたものは、スルリとそこから抜け落ちてしまうのです。
その世界への参入には、思考は超えられなければならないものですが、そこには思考の源泉と愛を実感する感情とは一つになっているのです。
スピ界隈にはあまりにも主観的感情を表に出して、その真実性を主張するあまりか、理証に走る傾向があります。
それが上記したような偏った言説につながるのです。思索と離れて心像に映し出された直感を表現するには詩的なものとならざるを得ないでしょう。
そうでなければ言葉の限界というものをもっと弁えるべきかと思います。
又、直感と離れた思索には生命が通わず、論証のための論証、観念の上滑りの堂々めぐりになるばかりです。
自戒の意味でこうしたことを書いているのですが、願わくは、あの原初的な思椎、情感の分かつことの出来ないものでありつつ(それは自己を超えたものと共にあることを言っています)、自然に相対相応に表わすことが出来ればと思っています。













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