人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

十字架とりて

2021-04-21 11:35:51 | 人生の裏側の図書室
「エス様は魂に言い給う、"十字架とりて我に従え"と、
ただこのひとことを、すべての人に。
十字架なしではたれひとり、たどり着けないのだ、目ざす地に。
されば雄々しく持ち上げよ、十字架を。
支えよ、全身をひきしめて。
汝の力耐えぬまで重くはかかるまい。
またたとえうちのめされ、ひざまずいても、元気出せ、恩恵こそ汝の分なのだ...」
(クリスティナ.ロゼッティ「十字架とりて」)

本を取り、ページをめくり、一読するなりその言葉につなぎ止められるようにも引き付けられてしまう、という経験はありますか?
19世紀英国の女流詩人ロゼッティのこの詩は、精神科医で、エッセイなど著述も多く残されている神谷美恵子先生の「うつわの歌」(みすず書房刊)という本に紹介されていたものです。
この本自体が、これ以外にも、多く割かれているレバノンの詩人ハリール.ジブラーンの著名な「預言者」その他の作品の紹介と解説、ご自身の詩、自身関わりの深かったフレンド会(クエーカー)に向けて書かれたエッセイなどが収められ、到底短い感想では表しきれないほど多様な、又深い内容になっているのです。
その中で、私にとっての最大の出会いはこの詩であったという次第です。
初めて読んだロゼッティは、米国の女流詩人エミリー.ディッキンソンと同じ年に生まれ、同じようにひき籠り勝ちの生活を送っていたそうです。
もしかしたら、同じように"見えない導き主"からその詩的霊感を受けていたのかもしれません。
神谷先生がこの詩に共感されたのは、おそらくは多く"十字架を負う"ということでイメージされる、"苦難に向かい、受け入れる、そこに主なるキリストの恩恵がもたらされる"、というところにあったと想像されます。
雄々しい使命感など持ち合わせていない私には、苦難を背負うことなど、とても...今日では何にもしてないのに、何も思わなくても、"見えない禍"が忍び寄って来ているではないか?
人生、生きること自体が苦難と隣合わせなのでしょうか?...苦難を通り抜けなければ、恩恵に与ることは出来ないのでしょうか?
しかし、そんなことも、あんなことも...思い巡らしているだけだったら、向こう岸へは渡れまい...
橋があるから渡れるのです。私が思う、行う以前に橋がかかっていたi
向こう岸に行かないと恩恵に与れないでしょうか?
いいや、恩恵なしでは、頑なにこっちの岸に囚われた思いから離れることは出来ないだろう...
思いを超えせしめるもの...十字架とは、私にはその象徴です。
それは多く小池辰雄先生からインスパイアされているものですが、それは聖霊と共にあるのです。
たとえ、人生にどんな苦難が待ち受けているとしても、十字架を受け入れれば、苦しみ多きこの地も、恩恵満ちるかの地に変貌することでしょう。
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思いを超えせしめるもの

2021-04-20 12:00:43 | 哲学・思想
"神とは、コレコレこういうものである。真我とは..."
と、このようにネットなどを通じて、実体が分からないものについて、決めつけたようなことを言う向きに対して、私はいつも首を傾げてしまわざるを得ません。
霊能者とか特殊な人にはあるいは独特の観方、感じ方というものがあるのかもしれませんが、常人にとってそういうものは知識、頭脳知を持ってしか知り得ないものという他ないでしょう。
とはいえ、私もこれまで何回となく、神や真我について言及したことはあります。
しかし、それが実体あるものとして、意味付け、結論付けることは不可能だし、してこなかったつもりです。
その他、"現臨"、"見えざる導き"...要するに霊なるもの、神的なものすべてがそうなのです。
しかし、しばしばそこで、"それが顕わになると、リアリティに与ることが出来る"、などと実体あるかの如く言い放ってしまうこともあります。
これは、そう感じることを言っているのです。それが何だか分からないけど、感じちゃうんだからしょうがないi
これは、"あーでもない、こーでもない"と、どこまで行っても観念の世界にしかたどり着けないようなマインド、思いが超えられたところで感じることなのです。
そこで語られるものに論理的に帰結されるものなど何もありません。あったところで、それが何に、どうなるというのかi...
思いを超えた、ということは分かる...それは勿論観念的に分かるということでなく、そういう感覚があるということに他なりません。そこから導き出せる言葉というのは、それを象徴するものを借りて言い表すしかありません。
"思いを超えること"...何度も言っていますが、これは分かる人には自明なことですが、分からない人には分からない...不毛な論理、議論をいつまでも繰り返しているしかありません。
思いを超えることというのは、少なくとも古来から伝えられている宗教的な道にあって、それは切り離せないものであるはずでしょう。
然るに、何故こうも宗教、スピの周辺には、理屈ごとに偏した言辞がうじゃうじゃと後を絶たないのでしょうか?
私が最近そういうものに接したのは、たまたまなのかもしれませんが、2、3の"禅仏教"に関するブログのコメ欄なのでした。
禅の道も前記したことから、外れるということは無いでしょう。
私は実修者でないので、詳しくは知りませんが、あれは頭脳知を超えた智恵、般若智というものに目覚めることを奨めているのではないですか?
その主の方の記事の内容が、理屈に偏しているとは特に感じられません。
しかし、どうも、(勿論すべてがそうだという訳じゃないですが)そういうコメが集まり易いのかなあ、と感じたりしました。
何故だろう?...思うに、これは禅といい、ある種の瞑想修行といい、所謂自力の道を伝える道にあっては、例えば"神の眩い光に、聖霊の、上よりの恩寵に打たれて生まれ変わりましたi"、というような"思いを超えせしめるあるもの"の消息があまり伝わってこないからではなかろうか?、と。
自力と言っても、そこにも何らかの自分を超えたものの関与というものはあるはずだ、と私は感じているのですが、頭脳知と超知、神知(?)とを分かつ際のところ、そうせしめるものを伝える部分がどうも弱い感じを持ってしまうのは私だけでしょうか?
その際が分からないから、なんやかやと言いたい御仁が後を絶たないのでしょう。
しかし、もしそういうウルサイ場に神的なものが臨んだら...シーンと静まりかえって、すべてのあれやこれやの雑音は止むだろう...
もっともそういう場には臨んで来ないのもフツーでしょうけど...
それを望まないものには臨まないのです。
今の時代は、望むものと、望まないものの二道がますます分かたれてゆく相を映し出しているようです...。
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奇妙な訪問者

2021-04-18 08:27:57 | 創作
私はある所で瞑想を教えている者である。何のために瞑想をするのかというと、言うまでもなく幸福を手に入れるためであり、それには思い、この思考というものを放たなければならない。
で、そのためには意識を集中して、その諸々の思いから離れるということをする。
で、そのためには(イチイチ"そのためには"...を繰り返さなければならないのだi)呼吸に集中する、目の前に花瓶とかを置いてそれを見ることに、マントラというか、ある言葉を繰り返してそれを聞くことに集中するとかやる訳なのだが...
こないだ、フラッとヘンな人がやって来て、瞑想を教わりたいと言うので今のこと(それ以外にも色々あるんですが)に取り組んでもらったのだが、何をやっても「出来ませんi」と言う。
そこで、「呼吸でも、花瓶でも自分に合ったものを選んでやったらいいんですよi」と言っても「僕には出来ません」を繰り返すばかり...
「あなたは緊張し過ぎなんじゃないですか? もっとリラックス、気楽にね...」
「別に緊張なんかしてません」
「どうして出来ないのかなあ...」
「意識を何かに集中しようとすれば、するほど思いがテンデバラバラになって集中出来なくなりそうです。"ここに在るもの"がどっかへ行ってしまう感じです」
「君は何を言っているのかなあ?..."ここに在るもの"って今言ったよね。それを見つけるためにこういうことをやってるんじゃないか?」
「そう、今ここに感じられるから、ここに在るものと言ったのです」
「おかしなことを言うんだね、何もやってない、やっても出来ない君がどうしてそういうものを感じられると言うのだね?」
「分かりませんi」
「何故だ?」
「さあ?...多分、それは私の思いとか私がやること、出来ることを超えているからだと思います」...(それを聞いて私は絶句するしかなかったi)
「君は本気なのか? 私をからかっているのか、からかいに来たというのかi」
「い、いや本気もウソん気も、ただ感じてるままを言っているだけです」
「...おそらく、君は天才かキ印か、最近スピ界隈でよく聞く"私は居ない"という人か、瞑想修行というものをおちょくっている人かどっちかだろう...」
「私がどういう人間だろうと、このことは私という一コの人間からは来ませんi」...(絶句)
「君はどうみても、一寸風采が上がらなそうなフツーの人間にしか見えないが...おそらく君の師匠、マスターというのは只者ではないな...一体、それは誰なんだね、教えてくれないか?」
「無理ですi 教えられませんi」
「そ、そうか、分かったぞ、君は何かの秘密結社のメンバーなのだな?」
「ち、違いますよi...マスターらしいものは多分居ますよi...それはあの御方だろう...」
「そ、そうだよ、その御方のことだよ、私が訊きたいのは...」
「無理ですi」
「何故だ?」
「私は一度もお目にかかったことありませんから...しかし、毎日、日夜ずっと接してる、交わっている感じです」...(絶句...彼の話しぶりから、彼がけっして私をおちょくっているのでないことだけは分かった)
「で、君、今もその"ここに在るもの"とか、その"御方"を感じているのかい?」
「ええ、今は何かに意識を集中してないし...」(これは、皮肉じゃないかi...ムッとなった...)
「どうやって感じるのか?」
「どうやって、って?...そういう話をしているうちに...」...(絶句...これは、無っとなる話だ)
「私はさっきも説明したように、何度も"そのためには"を繰り返し、瞑想修行に励んで来たのだが、何のためにだか分からなくなってきたよ」
「いやあ、私の方こそ、何のためにここへ来たのか分からないのですから」"パチンi"
「そ、そうだよ、それが訊きたいよi 何もしなくても、何も出来なくてもいい君が...」
「多分、通りがかった時に、表の看板に"どなたでも自由に瞑想出来ます"とあったのにつられたんだと思います」
「そ、そうだよなあ、自由ってのがいいよ、それだけで幸福になれるような気がする...」
と、言っている間に、いつの間にかどっからか降りて来たような、例えようの無い幸福感に包まれてしまったのだった...もう、考えることも、何かをやろうという気も起きてこない...そして、彼の言葉を最後に聞いたのは確か「私たちは歩んでいる道は違うのだろうけど、求めているものは同じらしいですねえ?」というもので、私は只々頷いているばかりだったのだが...いつの間にか彼は居なくなってしまったのである。
何とかして、彼の謎の、見えないマスターに弟子入りしたいと思っていたのだが...もはや、言葉がない...。
私の人生であんなに絶句させられたことはなかった...。一体、ありゃ誰だったのだろう?...それとも見えない誰かを運んで来たのだろうか?
(終わり)


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書いて、読んで実存開明?

2021-04-16 11:57:13 | 哲学・思想
時折、自分が書いた過去の記事を読み返してみたりするのですが...
一体、こんなこと誰が書いたのだろうi"と、我ながら驚くこともあります。
自分が一読者になったつもりで読んだら、もう、それは、それは...

"実存"とか哲学的でコ難しいこと書いているようだけど、全く論理的で無く、おっソロしく感覚的だ。
このヒトが言ってる、実存て何なん?...サッパリ分からんi
多分、これは考えても分からないから、そういう言葉をどっかから借りて来るのだろう...。
意味が知りたけりゃ、wikiとかを検索したらいい...
すると..."実際に実在すること"、とかあったが...一体何が実在するというのか? 机が実在したって、"机の実存"とは言わんだろう?
じゃあ、私が、ということ?...私の実在、実存?...私の肉体?...私の肉体(らしきもの)を見てたり、感じてたりする私は?
見えないゾi...実在してるか?...もう、ええわi...いくらそうやって意味を追及したって、実存に到達しそうにない...
しかし、何でも実存が開明するんだとか...このヒト、"実存主義者"(他称)K.ヤスパースの「実存開明」って本でも読んだんだろうか?(半分くらいは読んだらしいけど、何が書いてあったか覚えてないらしい)
どうも、実存というものは、開かれたり、明かされたりするものらしい....そうなって初めて分かるものなのだろうか?
これは、このブログにやたらと出てくる"現臨"というものと関係があるのだろうか?
"私を在らしめるもの"なんだとか?...んん~...分からんi
こっちは、wikiを調べても出てこない。ただ、現臨で検索すると、どういう訳かこの地下室の記事がヒットするゾi
ということはこのヒトの造語か、でっち上げか?
ただ、その周辺を見ると、どうもキリスト教で、聖霊の現れとかの関連で言い表されるものらしい...。
このヒト、隠れクリスチャンか? 何から隠れてるのか知らんけど...
隠れているものが、顕わになるんだとかってのもあったような...
"じんじん"と...って...んん~
し、しかし、さっきからもう、やたらと耳鳴りが...
"き~ん、き~ん"って、耳鳴りに私が占領されちまうう...
一体、ここにゃ何が隠れているんだi
何が出て来ようとしてんだi
し、しかし...
もう、どうでもいい...どうでも、こうでも...
こう、なっちゃたんだから...
もう、何も考えられないi
何かを捉えようとして、捉えられちゃったんだから...

全く、もう自分で読んでそうなるってんだから...
こういうこと、いつも私が書いてるんでしょうか?
我ながら驚くしかありませんi
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涅槃ー死と悟り

2021-04-14 10:31:56 | 仏教関連
「安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の賢者はそれを真理であると知る。彼らは実に真理を悟るゆえに快をむさぼることなく平安に帰してゆくのである」
(「スッタニパータ」/岩波文庫他)

成仏、仏滅、往生、臨終、仏になる、お陀仏になる、彼岸に渡る...
これらは、仏陀が説かれた涅槃に関連した言葉なのですが、どれもが死というものと結びつけられているのですi
悟ることとされる、涅槃という言葉すらそうなのかもしれません。一体涅槃に入ることというのは、喜ばしいことなのか、不幸なことなのか? 縁起でもないことなのか、それが縁起というものなのか?
悟りと死...どうやら原始仏教の昔から涅槃にはこの両義が含まれていたようです。
それを無余涅槃、有余涅槃と分けて説かれるようですが、前者はおそらく今の大方の人たちが、"死ぬこと"をイメージしているものにほとんど近いものと言っていいかと思います。
死んだら自分も世界も無くなる...死んだらオシマイ...これは信じ、思い描かれているような死後の世界とか、霊魂の不滅ということも無いということであり、幸も不幸も、そう感じる自分も無いんだから、悟ってどうなるってことも無いってことなのでしょう。
しかし、それもホントのところは死んでみなきゃ分からないのです。要するに無余涅槃というのは、誰にとっても無記...分からないということなのでしょう。
これは、仏陀自身の死、"成仏"のことを指しているとも言われています。だからそれを悟道と捉えようにも、仏に口なしで確かめようの無いことになるでしょう。
又、最近の悟ったようなことを伝えている、"私という自分は無くなったi"、という言葉も無くなったはずの人間がちゃんと居て言っているのだからおかしいことなのです。勿論、そこで愛に、至福に、平安に包まれたというのも...
このように、そう感じている自分が居るというのが、後者の方で、多くの求道者に"涅槃に入ると安らぎがあるらしい"、と悟りと結び付けられてイメージされるのはこっちの方と言えるでしょう。
しかし、死というものにも安らぎがあるように感じられるものですが、それは、それに直面してない人間が願望を含めてそう感じているだけであって、ホントのところは前記したように分からないもので、これはやはり涅槃というものの両義性から来るものなのでしょう。
ところで、涅槃に入る契機には"断滅"というものがあるとされています。
これにも両義があるようで、存在そのものが滅してしまうこと~即ちあらゆる意味での"死滅"と、思いというもの、思われた自分が滅するということで、有余涅槃として語られるのはこっちの方であるのは言うまでもないでしょう。
というより、語られ、言い伝えられて来たものは、こっちしかあり得ないのではないでしょうか? 
思いが滅するのかどうかはともかく、それから離れると、得たり、失ったりしない幸、不幸を超えた平安というものがある...かもしれない。
思いというものは、完全に滅することが無ければ本当の悟りとは言えないのか?
だから仏陀が伝えた本当の涅槃、悟りの境地というものは...無記(i)だろう...。
仏陀はそのことについて明言しなかったようです。
あるいは悟りを巡ってケンケンガクガクの議論が起こったのかもしれません。今日、悟りを巡ってそういうものが次々現れて後を絶たないように...一体、そんな世界のどこに思いが滅する、ということがあるでしょうか?
無余涅槃といったことなど、仏陀在世当時も今も考えても、語ってもしょうがないことでしょう。
議論するだけ、空しい...空論、戯論になるだけです。
仏陀は、"究極の悟りが何かを知りたかったら死んじゃいなさいi"、と言ったかどうか...おそらくそれは、弟子たちにそのことを悟らせるために持ち出された話だったのではないでしょうか?

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