人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

道を照らす火

2022-12-14 09:33:49 | 宗教
ある時、道院の集会である会員がこのようなことを言っていました。
「我々の道は、キリスト教や仏教など諸宗教のさらに上のその大本の神を奉じているのだ、云々...」と。
こんな言葉はキリスト教会でも聞かれますよ!...その道というものは、諸宗教とどこが違うのでしょうか?
要するに自団体の優位性を主張したいんでしょう。こういう傾向は、既成宗教だろうと、”そんじゃそこらの宗教とは違う道”だろうと、人間の集まるところでは多かれ少なかれあるものでして、他の”超宗教”においても同様のことを聞いたことがありますが、反感こそすれ共感したことなど一度もありません。
こういう主張がなされること自体、数多の宗教が辿る運命のように、その元なる大道に開かれた在り方からズレてしまっていることに気が付かねばなりません。
ハッハッ!...そこにどうして五教を統べて、一なる道に融和させる道が開かれるであろうか?
何故、こういうズレが生じてしまうのでしょうか?
抽象的な教理、字理にトラワレてしまうからでしょう。何故トラワレてしまうのか?
内に道統に連なる火、道を照らす火が点されていないからでしょう!
事の優劣でなく、道と宗教を分かつものは、那辺にあると言えます。
それは、具体的に、物理的とは言えないながらも、ある暖かみとして感じられるものなのです。愛、安らぎと言い換えてもいいでしょう。
そしてそれは、自己自身と離れてあるものでは無い!、方時も無いのです!
教理、字理に関するものは、それについて思念する自己と二元的に分離していて、それに一致するには追従してゆくしかありません。
しかし、それはどこまでも二元的な思いの世界を超えることは出来ないのです。
又、道統の火は、別の団体においても、あらゆる固定観念を乗り越えて、虚心坦懐に臨めば、多少感じ方は異なることはあっても感じられるはずです。
大道に二つは無いのだから...それは普遍世界につながっているものなのだから!
世に数多の教えがある訳では無いのです。一なる道があるだけではないでしょうか!
これ、”我が宗のみ尊し”、という如何にも普遍世界から浮いた在り方とは、天と地ほどの開きがあると言わねばなりません!

というようなことは、今だからエラそうに言えるのでして...実はあの道を照らす火、光のことは、ずっと自覚的に感覚されていた訳では無かったのです。
ただ、どういうものが私の内に息づいているかは感じていたのです。
それは、見えない導きとして認識されていたものに他なりません!
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道が開かれた!

2022-12-13 10:23:56 | 回想
私は昭和54年2月、宗教結社道院に正式に求修(入会)しました。
道院は、儒、仏、道、回、耶の世界の五大宗教の同源を説き、相対化してその本来性を失った宗教からその元となる一なる大道を開き、帰一する旨を説いているのです。
その道の伝達は、”フーチ”なる古来中国に伝わる、神人感合の自動書記によることで知られています。
ちょうど同じ頃、前年秋から購読していた、要之神伝(かなめのつたえ)と呼ばれる日月神示に相通じた、やはり自動書記による垂訓をまとめた冊子を出していた、兵庫県豊岡市にあった神業団体の名称が「太弥勒神光協会」から「光之道」に改称されるということがありました。
「これよりひらく光之道は、宗教に非ず元の道、神も仏も人民もこの光之道とおらねば、新の神世へ渡れぬと悟られよ」
と、道院と全く同様の趣旨のことが示されていたのです。
それからもう少し後になり、”キリスト道”を提唱する小池辰雄先生を知るようになりました。
「私はカソリックでもプロテスタントでも無教会でもありません。キリスト直結です」
”道とは、教えではない!...思念する、信じる私が居て、その対象としてその教えを信じ、従うという在り方ではない!
神は六次元だか何次元だか...全くどうでもいい!...所与の観念ごとをただ鵜呑みにするだけのことなど!...そんな字(事)理に囚われることはない!
直接つながるものがある!...暖かい!...じんじんと脈動が感じられる!...私の思いを超えた何かに”見そなわれている”感じがする!
こうゆう境地のようなものを目指して私は修行をやらなければならないのだろうか?
何をすればいいのだろうか?
何をするということもなく、意識が何かに向けられる!...向いてしまう!、もうつながっているのだ!”
私がいつもここで書いている、神的な現臨のことなどは、すべてこの頃芽生えたと言っていいでしょう。
あの精神の不安定な状態が大分治まって来たのと同時だったと思います。
まだ本格的に精神的な道を求めて、一年ちょっとという若輩者の分際で、何をノボセたことを言ってるのか?、と我ながら思いますが...改めて感じざるを得ません!
すべて見えない導きによっていたことを!
だから、このことを蔑ろにしたら、きっと又”お取り上げ”となるでしょう?
そして、確かに私にある”道標”のようなものが与えられたのは確かでしたが、それも形の上で相対化して、数多の宗教と同じ道を辿ることにもなりかねません。
どこまでも、道の本義に立ち返り、本体につながらなければならないでしょう。
道院の壇訓ではおなじみの言葉に曰く...
「道は片時も自己から切り離されることは無い」


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道院の神呪

2022-12-11 10:01:29 | 秘教、その他団体
何度も触れているように、昭和54年初頭、突如意識がどこかへ飛んで行ってしまうような変調に見舞われ、それが私に神的な現臨が芽生える端緒となったのでした。
この時は、とにかく精神的に不安定でして、そんな時はもう祈るしかないのです。
そう、やっぱり、祈りからああいう感覚が発現したと言えるでしょう。
それともう一つ、特にその不安定な状態に功を奏したものに、当時割りと熱心に通っていた中国の宗教結社、「道院紅卍字会」に伝わる“先天の坐法“と言われる修法がありました。
この理由は、座禅などでもそうですが、心持ち丹田の辺りとか下半身に意識が向けられるためだと思われます。
そのやり方はあまりにもシンプルなためか、そこの関係者、ことに長年常駐理事だったNさんからもこれといった指示は受けて無かったのです。
前年の暮れ辺りからその年の3月くらいまで、ほぼ毎日約15分くらい(初心者は16分を目安にするという規定がある)続けていました。
すると...特に年頭に起きたあの件から顕著になったのですが、その坐法で膝に軽く手を置いてやるのですが、その手の辺りからポカポカと暖かみを覚えるようになったではありませんか!
これは単純な物理的、肉感的な暖かさではなく、かと言って、“そう思った“ものでも勿論なく、肉感に近い内的感覚(私は現臨感覚とか、物理的感覚を超えたものをすべてこのように総称しています)のような、語るだに微妙なものなのです。
これに加えて、私の場合忘れてならないものに、同じく道院に伝わるいくつかの神呪があります。
私のポリシーとして、ある特定の団体にしか通用しない教えとかメソッドなどに囚われない、というのがあり、実際ほとんど、それに依拠しないと何かが発現したりしないということも無いのですが、これは別です!
座禅や瞑想をやったことのある人なら宿命的に、雑念が起こって来たらどう対処したらいいか、という問題を持つものですね?
これはその方便として、私がその呪文を心の中で称えるということからやり出したものなのです。Nさんにそのことを告げると、“そりゃあ、いい!“とのことでした。
で、その呪文とはどんなものかって?...別に秘密事項になってる訳でも無い(少なくともその当時は)のですが、そいつをここで教えるのは何かと問題がありそうなので、関係者に聞いたらきっと教えてくれるでしょう?(私は当時まだ未会員だったのですよ!)
よく考えてみれば、当時の私のその修坐は、“念呪“との双修だったと言えるのです。
実は、先の内的感覚と言うのは、”坐“によるものか、“念呪“によるものか判然としない、と言ってもいいくらいだったのです。
そのポカポカ気が巡る感じは坐によるものだとして、それと切り離せないものとして、ある種の感応道交のようなものがあり、これは念呪によるものと言えるかもしれません。
その感応というものこそは、現臨感覚に通ずるものなのですが...
難しい漢字で記されていて、意味の分からないその呪文の言葉から何故そのようなことが発現するのかは...サッパリ分からない!
ただ、道院ではその修坐が特に重んじられていて、その呪文のことには、意外にもあまり言及されることは無いのです。
しかしながら、それは言うなれば、それはあらゆる宗教的伝統に伝わる祈り~念仏、天津祝詞、ズィクル(イスラム)などに当たるものと言えるでしょう。
もしかしたら...道院では”秘中の秘”なので、あまり語られることは無かった!...かもしれない?
私史でもあまり語られることは無いですが、私にはけっして忘れられないものには違いありません。

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我が主の律法

2022-12-10 09:33:19 | ガイダンス
キリスト教などでは人格神ということをよく説いていますが、神に人格があるのかどうか本当のところは分かりません。
私は、“あの御方“とか“見えない導師“とか、如何にもそのような存在として呼んだりしますが、現実にある人格的な情動、心情のようなものを通して導かれるということはなく、多くの場合こちらの意識にある促しがもたらされることによるものなのです。
しかし、一度だけそのような人格的な情動のようなものを強烈に感じたことがありました。
それは40数年前、私がうっかりカルト教団に近づいてしまって、そこに入らされる一歩手前まで行った時のことです。
突如、何かゾクゾクさせる寒気のようなものを覚え、全身の血の気がサーッと引いたようになったのです。そして上の方から「一刻も早くここを立ち去れ!」というようなことを言葉ではない、何かの響きをもって伝えているのを感じました。
間一髪、そこから離れることが出来て、何かそれまで受けたことの無い、それでいてずっと昔に覚えていたような感情に襲われました。
“襲われる“という言い方は、全く自分を超えたところからの情動を受けている感じを表しているに他なりません。と同時に自分の中から出てくる感情でもあるのです。
この時の感覚というものは...とても言葉で言い表すことは困難なのですが...「お前は本当にバカだなあ!...お前が本当に求めているものはそんなものである訳が無いだろう?、お前の本当の願い、私の導きが何故分からないんだ、お前は!...」というような響きは伝わって来たのでした。
私は、どうも取り返しの付かないアヤマチを犯そうとしていたようなのでした。我が主にはこのカルトに迷うこととかのことがとても気障りなようです。
これはしかし、単純に間違い、罪を犯す、それに対する“おとがめ“のことを言っているのではありません!
そのような法、道徳律のようなもので捉えたら絶対に分かりません!
“とても暗く、空しいものが私の心を覆っている...そこには人生で真っ先に知らねばならない、それ無くして、そも人生そのものが立ちゆかなくなるものが感じられない...それは神的な愛!”
それが、暗く、空しい中にも仄かに見え隠れしているのでした!
それが覆われてしまった、感じられない世界とその光が差し込む世界の両方を見せられているようでした。
浄土系仏教で伝える二河白道の世界とは、こんなものなのでしょうか?
そこに、私が本当に求めて、願ってやまないものが示されるのです。
それはどこまでも、自分の外から義務や掟に従うことによるのではなく、自分の中から、心底から自然(じねん)。自明なものとして受け取らねばならないのです!
外からの強制によっては、人間実存はどうともならないのですから!...
我が主の律法は、失われた本来的愛の回復に向けられているのです。
失われたものは、取り戻すことが出来る!
あの時、遠い昔失ったような、又失おうとしていた宝を強烈に感じさせられたのでした。
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幸福でなければ意味は無い!

2022-12-08 09:42:50 | 求道、探究
精神的な道を歩んでいる人の多くは、“本当の自分、真我とは何か?“、ということに関心を持っているものでしょう。
で、ある“スッバらしい“思いがもたげてきたとして、それが真我から来ているのか、偽我?から来ているのか、分からないと考えたりとか...あるある?!
私もご多聞にもれず、ありますが、まあ、そういうことは考えても分からないですね。
だけど、この何が本当か、真実か、正しいか、そうでないか、間違っているか?、という問いかけ自体が、そういう観念的な方に意識を向かわせてしまうのではないでしょうか?
そこに余計な意味付け、価値付けが加えられてしまうのです。
それについて考えないとならない...そして考えて真か偽かと、結論を出そうとします。
これと関連して、自分が本当にやりたいことは何なのか、何に本当に惹かれているのか?、ということにも考えが及びます。
いやいや、そういうことは難しく考えんでも分かりませんか?、理屈じゃないということが!...
そのことを考えるということは、一度や二度は本当にやりたいことをやったことがあるということじゃないですか?
それは、まったく単純に自分が好きなことじゃないですか?(これは、その場限りのアルコールとかニコチンとかHなこととかの快楽のことじゃありません!)
人に聞いたら“何だ、下らない!“ことかも分かりませんが、自分のことですよ、赤の他人に聞いてどうする?!
これは、全く感覚的なことなのです。好きなこと、惹かれてやまない...それが意識が自ずと向くということなのです!...自然とそうなる、そうならざるを得ない!
そして、そうなっている自分というものに、何が真で、正しいのかは分からないが、本当の、本来の自分らしさというものを見い出すことでしょう。
そこに安らぎがある、平安、幸福がある!...“自然に...幸福になる“...これが決め手なんだ!
“それに何の意味があるのか?“、って?...幸福でなきゃ何の意味も無いだろう!
考えんでも、結論をひねり出さんでも、もう出てるようなものではありませんか?
分からなくてもいい、感じていたらいいのです。

“真我というものは、自分の自然な、本来の状態のことである“、と説いたのは、ラマナ.マハルシでした。スッバらしい!
この真我を、あまり知られていないことだけど、“本来の自己“という風に訳した玉城康四郎先生もスッバらしい!
私的には革命的なことです!...真我の探究という、どこまで続くのかしれない、迷路のような道をさまようことも無くなったようです!...


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