人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

与ることのリアリティ

2023-01-07 09:24:31 | 求道、探究
人間というものは、自分が思ったこと、為したことに拘るものですね。
それも如何にそれが優れていて、正しいものなのかということに...
日頃の努力精進というものを認めて欲しいと言わんばかりに...
宗教やスピの世界にあっても...ことがあまりそぐわないと思われるからか、余計に目につくようです。だから、余計に鼻につくのでしょう?
“私は無の、空の、悟りの境地になりました!“...とか!
思おうが、為そうが自分からは成りようが無いことなのに...
いくら肉体感覚が無くなったと言おうが、霊化したと言おうが、自分“が“という線から抜け切れなれば無意味でしょう。肉体があろうと、無かろうと我心はしっかり有るではないか!、有ってもいいけど、そっちを問題にすべきじゃないですか?
だから、宗教では昔から“謙虚になれ!“、とか“自我を出してはならない!“、とウルサく言われて来たのでしょう。
しかし...このことは、外からの“そうせねばならない“道徳律のように扱われるだけならば、絶対に本質的なものは見えて来ないでしょう。
私自身に即して言えば...勿論私は、自己を超越しておりますので、こういうことはとっくにクリアーしているのでありまして!...って、そういうことも思いたいんですよ!、人に認めてもらいたいんですよ!(今でも!、きっと自分がそうだから鼻につくのでしょう?)
だけど、どうしてもそうなっている限り、その“超えたこと“にせよ“目覚めた“ことにせよ、何というか、本当にそれを目の当たりにすると言うか、玉城康四郎先生がよく言われる“裏側から裏打ちされる”という感じがして来ないのです!
端的に言えば、“与った!”という感じがして来ないのです!...そういう風にしか言いようがありません!...与るというところにリアリティがある!
何かを得るらしい?...そいつあ、無だった、空だった!、ということを悟らなければならないのです!
言うまでもなく、自分からは無にも、空にも、悟りにも行きつけないからです!
このことは、この”思われた私には実存的根拠は存在しない“、ということを如実に物語っていると言えるでしょう。
私が私を超えるのではなくて、元から私を超えた何かにそれを求められるということでしょう?
だから、オレ”が”のさばっている限り、与ることが開かれることは無いのです!
たからだから...私は私でないほど私になってゆく...
新しい年ともなり、このことがいっそう強く感じられて来るようです!...

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボクシング採点の裏側

2023-01-05 10:29:12 | 雑記
いやあ...大晦日に行われたボクシング、世界スーパーフライ級王座統一戦井岡一翔vsジョシュア・フランコの試合、未だに論義を呼んでいるようですねえ...
だから、井岡をモンスター井上と比べてどうだなんだ、って声も随分あるようだけど、井岡はフツーに強く上手いボクサー、それを人間離れした(モンスター!)ボクサーと比べるのはヤボというものです。
そんなつもりは無いのだけれど、どうしてもその前に行われた、井上のバンタム級王座統一戦とは、全く対照的な試合だったな、と感じてならないのです。
どういうことかと言うと、その試合、KOでハッキリ決着がついたということよりも、途中採点のことなのです。その10Rまでの採点は、三人のジャッジとも井上のフルマーク、文字通りワンサイドだったのです!
普通こういう一方的な展開だと、そんなに長く待たずとも決着がついてしまうものです。相手がよほどタフか、亀のようにガードを固めていなければね!
ボクシングは、如何に相手に打たれずに打つかで決まる!...あんなに分かりやすい試合は無いと言っていいでしょう。
それに比べたら...“ああもう、こんなんじゃモヤモヤして、年越せないやんか!“って気分にさせられましたよ!...当人たちは懸命に戦っていたんですけどね...
私は絶対の自信を持って、今度ばかりは井岡の負け、と思ったものが!
ええっ!...大半以上はフランコの勝ち、だけど井岡を支持する声も割とあり、自分のボクシングの観方(大概自分で採点しているのです)も見直さなきゃならないかな?とも思ったのでした。でも、もっと目を凝らして観ても、素人ながら自分の採点基準というのは、変わらないのです。
問題となるものは、そう、ポイント.マスト.システムという、Rで10ポイントのうちどちらかにポイントをつけなければならない、という採点方法なのです。
しかし、両者これといった有効打もなく、どうしても差が付けにくい時はどうしたらいいのか?
私はたとえガードの上から(井岡支持者のほとんどはここを観ていた!)のパンチでもポイントをつけます。ただ、それが当たらない場合、単なるけん勢の意図から相手を後退させる程度ではちょっと迷いますね。その程度にもよるけど、基本ボクシングはパンチを当ててナンボ、という競技だと思うので、当たらなければ話になりません!
有効打(これも井岡支持者の観方)というけれど、フランコのように相手が効いてないようで前進、手数がとまらなくて有効と言えるのか?
逆にガードの上からであっても、当たればそのガードする腕にダメージを与えられるし、その圧力で相手の上体を揺さぶることが出来ることを考慮すれば、それが重なればリッパな有効打になり得るのではないでしょうか?...井上が正に先の試合で実証したように...
まあ、これはあくまで私の個人的な観方に過ぎません。(いつも書いてるような記事と同様?)何かの参考になれば!
もっとも、採点に余計な忖度がなければの話なんですけど...
あの試合の三人のジャッジの採点表見たけど...訳がワカラン!
統一戦なのに、ちっとも統一されとらんではないか?!
ボクシングの世界戦には一体、どういう裏側があるのでしょうか?

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そのままでいいことと受け入れること

2023-01-04 10:06:19 | 現臨、ハタラキ
前々回の“受け入れること“の補足のようなことなのですが、よくある誤解について触れてみます。
これは真面目?な性格なのか、私にも覚えのあることなのですが、例えば職場でパワハラとか受けていて、いい環境に恵まれてないのだけれど、それが今の自分の置かれた現実、立場なんだから甘んじて受け入れなければならない、とかそういうことを言っているのではありません!
ホントにつらかったら、場合によったら(言葉は適切でないかもしれませんが)、逃げるとか然るべきところに訴えるとかすればいいでしょう。
苦しいことをガマンするとか、全くそういうことじゃないのです。
又、受け入れることは現実に向き合うことではあるのですが、テレビのドキュメンタリーとかで陰惨な場面が出て来て、それが現実だからといって直視しなければならない、ということでも無いのです。アタシャ、イヤですよ!、正月からそんなのは!
つらいことをガマンしたければ、陰惨な現実を見たければそうしたらいいでしょう。イヤなら背けてもいい!
スピ界では”そのままでいい!”、何てことを言いますが、それはガマンすることである訳無いのです。又、それは後述する、やはり誤解されることですが、ダメで、バカな、悪い自分のままでいいのだけれど、ずっとそのままでいいって訳でも無いのです。
強い意志を持っていたからといって、“あの現実“を受け入れられるとは限らないし、弱ければ...こっちは得てしてそうなることが多いようです。つまり弱い自分を受け入れることで!
要するに、ここで力点が置かれていることは、自分をどうこうする、どう対処するかということでは無いのです。
どうこうするまでもなく、ありのままの自分の現実に意識的になる、意識を向ける...いや、もう、それだけで、ぱーっと、そこに何か自分を超えたものが開かれた感じになって来るではないか!
この思いを超えた神的な現実を受け入れるということに尽きるのです!
強い意志を持っているのなら、自分で何でも出来るんだから、こういうことは中々開かれないでしょう。
そんな他動的なことでは、人間の自律的な在り方はどうなんだ!、という向きもあるかもしれませんが、私には人間の、人間による、人間のための現代世界がこの先どうなるのか、テンデに分かりません!
又、そういう向きからは他動的に映るのでしょうけど、私はこの思いを超えたものにあって初めてそもそもの自分自身に会え、本当の自律的な在り方も生まれる感じがして来るのです。
何でも自分から思い、為そうとする在り方は、それに歪みが生じ、マイナスの方に傾いてしまったとしても自分では中々止めることが出来なくなります。分かっちゃいるけど止められない...
分かっているけど分かってない!...自分を超えたものにあって、留まることが出来るということが!...それがそのものを受け入れるということに他なりません!
私自身に即したことを言えば、不真面目?な性格からか、あんまり道徳倫理的な克己的な精神に欠けるところがあります。
しかし、あの現臨にあってどれだけ生来の無秩序な、暴走的な衝動が抑えられていることか!、今のところ...
それは、外からの強制から来るのではなく、多くは、中から本来性に帰るべくハタラく、あるものから来るのです。少なくとも私の性質は、こうしたものによらなければどうにもならないのです!
いやあ、人が何と言おうと、自分の本来性に帰るのが一番いいんだ!
何故って、分かりきってるでしょう!...そこに愛と安らぎがあるから...
ところで、書いてて思いますが...何が私の本来性なんだったっけ?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一なるものと一つ

2023-01-03 10:33:08 | 
私は神信仰している人間で、自分が信じている神のみが正しい、尊しとする、狂信的、独善的在り方を全く信用してません。
本当に神を受容しているのなら、そんなことはあり得ないだろうと思うのです。
それは神そのものを受容しているのでなく、人間が思い描き、説いている神を思念しているだけなのです。
神というのは一つのものなんですよ!、だからその神の他に神は存在しないのですよ!
え!...だからだからそうじゃなくて!...そうでもあるし!...
ここでは神を存在論的に、概念的に唯一神論のようなことを言うつもりは無いのです。
もっともそれは一神なのかもしれません。多神的表れもあるかもしれません。神の独り子、あるいは祖先霊とか守護霊的なもの、又はある種の不可知のエネルギーなのかもしれません。要するに分からないのです!
分からないものをただ信じるというのは、概念、観念としてでしか無いのです。
そうした人間的に思い描き、造られたものを介さず、直接その神的なものを受容するならば、それが宗教宗派でどう観念されるものであれ、一なるものという他ありません!
それは実存的に関わらざるを得ません。私の実存は、分裂無き一つのものなのだから!
だから、神との実存的交わりにおいて宗教宗派は全く超えられるのです。
そして、このことにおいて又、自己と神的なものは一如のものとなるでしょう。
つまりは、一なるものと一つになることが合わさるのです。一つのものなのです!
然るに、先のように神を“一つの概念“に限定し、固着して囚われるならば、実存は分裂し始めるでしょう。
驚くなかれ!、これが神を語る多くの宗教でずっと起きていることなのです!
神は人の思念を超えたもの...何故こんなことも分からないのだろうか?...なんて言っててもしょうがないか...
私はご存じのように、様々な異なる宗教と関わって来ました。
この在り方をある信仰者からは、根なし草とか八方美人だとか批判的に言われたこともありました。
だけど、あまり意識的ではありませんでしたが、私の内には、実存的にはずっと一なるものが息づいていたのです。こういうことを言って弁明しようとしたのですが、その時はどう言い表していいか分からなかったのでした。
宗教宗派との関わりは、外向きの形なのです。
私のような歩みでなく、一つの宗派だけに深く関わるのもいいでしょう。
しかし、その場合、独善的在り方は全く余計なことであるのは言うまでもありません。
それは、神を岩戸に押し込めるだけなのですから!
今の私のように、全くそうした関わりを持たないのが一番気楽でいいかもしれません。
形は様々...しかし神は一つ!...神と一つ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受け入れることから始まる

2023-01-02 10:01:52 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れることの大切さについて度々書いてます。
しかし、言葉ではそう言っても、現実にはこれが中々難しい...って、そんなん難しい訳無い、とも感じてますし...要するに、何がありのままなのか、とか考えたりするから難しくなるのです。
考えて結論を出そうとしたり、どうとかしようとしないこと!...そんな場合は考えている自分を受け入れることです。
これはそう意識することと言ってもいいでしょう。
自分についてあれこれ思い描き、考える...それはありのままの自分ではありません。
これまでの至らない、悪い、ダメな過去の自分...あるいはそのうち至るように、正しくなり、進歩するであろう未来の自分...どちらも今のそこに何らの虚飾を加えない、ありのままの自分ではありません。
だからと言って、受け入れるということは、その思い描いている自分を否定することでは無いのです。真我らしきものを取って、偽我らしきものを捨て去ることじゃない!...そのまんまを受け入れる!
ありのままの自分に真も偽もありません。言い方を変えれば、受け入れることでホントのものが開かれ、否定したらいつまでも思い描いた自分にフタがされたままでしょう。
だから...今の現実の自分に向き合わなければならないのです!
いや、だからだから、それが掴みようのないことで手が付かないんだって!...わかりますよ!
手放しで出来ることじゃないです。私が私を意識したり、受け入れたりすることは!
けど、ただそう意識するだけで、自分の思いを超えたところから何かに見られているという感じがしてこないでしょうか?
それが私が“照明“と呼んでいるものに他なりません。
照明に与ることが意識的になっていることであり、思考マインドから離れることなのです。
そこにありのままの自分が映し出されるのです!
つまりは、自分を受け入れるということは、神的なものを受け入れることにつながるのです!
自分を受け入れることは、自分を超えたものを受け入れること...そこからすべては始まる、と言っても過言では無いのです!
神についても、何教の神であるとか、何次元の存在であるとか様々なイメージで思い描かれ、信じられたりしています。しかし...驚くべきことに、ほとんどの場合受け入れられていないのです!
多くの神は、何と観念に映じられたものに過ぎないものであることか!
思いを超えたものに、余計な先入観、固定観念を付したら超えたものになりません。
神という言葉がそれらを誘発するのなら何とでも呼んだらいいでしょうが、ここでは、それは漠然とした、抽象的なものでないのでそのように表しているまでです。
とにかく、ありのままに照らされるだけのことに余計な考えは要らないのです。
考えているのなら、それを照らされるままに受け入れる...そうすれば考えごとはやむでしょう?
今日のような快晴の日照に与ることと同じですよ!
外に出たらいいんです!…いや、こっちのは出なくてもいいんだった!
ホントにホントーに大事なことは、あまりにもそのまんまなので気が付かないのでしょう?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする