「《私は在る(I AM)》とは神のことであり、《私は神である》と考えることではありません。《私は在る》を実現しなさい」
(「ラマナ.マハルシとの対話第2巻」/ナチュラルスピリット刊)
私は今、後悔しています...。
だから言わんこっちゃない!...秘伝みたいなもの公開するんじゃなかった!...
おかげで、今朝”あの御方”に私が捉えられて、二度と戻って来れなくなると思ったじゃないの!
最初はものは試しで、ってノリだったのが、こんなに強力なものだったとは!
”私そのものを意識してみる”
意識するとか言うのは、実は意識するとかしないとかってレベルのことじゃなくて、即そうなるというようなことなのです。
別に言葉は”神”でも、”主”でもいい。そうなればいいのです。ただ、なんであれ”私は在る”という”原実存”(思弁で捉えられがちな実存と区別してこう表してみます)と切り離されるものではないのです。
ただちにあの現臨感覚が呼び覚まされ、ひいてはそれに捉えられ、飲み込まれることにもなりかねませんので、御用心!
私はどうしても、これをラマナ.マハルシが推奨していた、常に”私は誰か?”と尋ね続ける、真我の探究の道と関連付けたくなるのです。
私は少しかじったことがあるのですが、やり方が悪かったのか、どうしてもそのような尋ねようと思う私、為そうとする私が意識下に残り続ける感じがあったり、普通それを遂行することで、そうなるであろうように、”私は誰其れという名前ではない、肉体ではない、心ではない...”と、どこまでもナイナイづくしが果てしなく続くようで、やはり思いが超えられない感じがしてしょうがなかったものです。
いや、ラマナが言わんとしていたのは、ダイレクトに「私」意識に尋ねようとしたのではなかったのではないでしょうか?
考える私、為そうとする私が主導であっては何にもなりません。”原実存”とそれはけっして同一視されてはならないのです。
真我の探究は、ジュニアーナ.ヨガ(知識の道、考えるヨガ?)と関連付けられたりしますが、これがどうも私にはつまずきとなるようです。
私には、それはラマナが真我実現のもう一つの道、バクティ(帰依の道)と不可離のものとなった感があります。
それにしても、二カ月前、突如現臨感覚を失ってしまったあれは何だったのでしょう?
もしかして、”そういう時はこれを試してみろ!”と、あの御方からの私のための秘伝だったのかもしれません...。
(「ラマナ.マハルシとの対話第2巻」/ナチュラルスピリット刊)
私は今、後悔しています...。
だから言わんこっちゃない!...秘伝みたいなもの公開するんじゃなかった!...
おかげで、今朝”あの御方”に私が捉えられて、二度と戻って来れなくなると思ったじゃないの!
最初はものは試しで、ってノリだったのが、こんなに強力なものだったとは!
”私そのものを意識してみる”
意識するとか言うのは、実は意識するとかしないとかってレベルのことじゃなくて、即そうなるというようなことなのです。
別に言葉は”神”でも、”主”でもいい。そうなればいいのです。ただ、なんであれ”私は在る”という”原実存”(思弁で捉えられがちな実存と区別してこう表してみます)と切り離されるものではないのです。
ただちにあの現臨感覚が呼び覚まされ、ひいてはそれに捉えられ、飲み込まれることにもなりかねませんので、御用心!
私はどうしても、これをラマナ.マハルシが推奨していた、常に”私は誰か?”と尋ね続ける、真我の探究の道と関連付けたくなるのです。
私は少しかじったことがあるのですが、やり方が悪かったのか、どうしてもそのような尋ねようと思う私、為そうとする私が意識下に残り続ける感じがあったり、普通それを遂行することで、そうなるであろうように、”私は誰其れという名前ではない、肉体ではない、心ではない...”と、どこまでもナイナイづくしが果てしなく続くようで、やはり思いが超えられない感じがしてしょうがなかったものです。
いや、ラマナが言わんとしていたのは、ダイレクトに「私」意識に尋ねようとしたのではなかったのではないでしょうか?
考える私、為そうとする私が主導であっては何にもなりません。”原実存”とそれはけっして同一視されてはならないのです。
真我の探究は、ジュニアーナ.ヨガ(知識の道、考えるヨガ?)と関連付けられたりしますが、これがどうも私にはつまずきとなるようです。
私には、それはラマナが真我実現のもう一つの道、バクティ(帰依の道)と不可離のものとなった感があります。
それにしても、二カ月前、突如現臨感覚を失ってしまったあれは何だったのでしょう?
もしかして、”そういう時はこれを試してみろ!”と、あの御方からの私のための秘伝だったのかもしれません...。