人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りの根本義

2023-09-20 09:38:12 | 祈りと瞑想
祈りについては何度も触れてきました。
私は特別な方法に依拠してこなかったけど、祈りというものは身に付いていたのだ、とか...
ずっと読んでいる方ならお分かりでしょうが、ここで言う祈りというものは、特定の祈り言葉を唱えるとか、ある形式に則るというものではありません。
別にそれが悪いと言っている訳ではありませんが、自分にとって、それが本当に自然に適したものならともかく、”そうでなければならない、と囚われてしまっては自由な感性を損なうものでしょう。
そういうものは、自分でそう思っているもの、自分の流儀や信条といったものを立てているということなのです。
そこでは思考が超えられていない...つまり、ここで言っている祈りというものは、思いを超えたものに心を開くことを言っているのです。開かれるということは、思いから離れることを意味しているのです。
といって私は何も心を開かなければならない、と言っている訳ではないですよ!
自分から開くことなど出来ますか?...出来ないから、現実には出来もしないこととか、自分では何一つ確証のない、あらゆる空想ごとを巡らし、自分の思いの世界に”閉じこもり”続けているのでしょう?
自分を超えたものに意識を向けたらいいのです。意識を向けるとは、イメージするとか念じるとか、悪い思い方を変えるとか(その最たるものは思考を自分で止めることだろう)、思考に働きかけることではありません。
意識とかが難しかったら、思い立つだけでいい...出来る、出来ないという問題じゃありません。思い立つのは思い、為そうとする自分かもしれません。しかし、これは”自分の思いを超えた方に!”、というのがミソなのです。
そうなれば、自然に開かれるのです。向こうの方が開かれるように導いてくれるのです。
これは思いを超えたものに対して、自分の思いを立て続けている、祈り心の無い人間には絶対に分かりません!...祈りの方法ごと多いのお~!
”私は阿弥陀さん、いや、私は観音さん、いやいやイエス.キリスト、○○先生”...勿論、人それぞれ信仰対象はあっていいのです。あまり信条的な思いに囚われなければ。そうでなく自分が自然に思いが超えたものに向けられるのなら何でもいいでしょう。
それを自分以外に向けて、この神でなければ、この祈り言葉でなければ、という主張がなされるからこの祈りの根本義から逸脱するのです。
そもそも神というものは、いつも言うように、思いを超えたものの代名詞、象徴なのです。
思いを超えると同時に、特定の信仰対象の向こうに広がっているものを次第に感じてくるでしょう。そこには、宗派性は完全に超えられている!
祈りとは、自分の思いを超えたものを頂くことです。
だから、世間一般で理解されているような、神に願いごとを聞いてもらうということは、根本がズレていると言わねばなりません。
”いくら神に願っていても叶えられない!”...自分の思いを立てていたら、いつまで経っても叶えられないでしょう。しかし、あなたが本心から愛、安らぎを願っているとしたら...
自ずから思いが開かれるでしょう。それで願いが叶えられないことなどあるでしょうか?!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失われたものは大きい!

2023-09-18 09:30:25 | 
神の実体は分からないし、実在するかどうかも分かりません。
しかし、言葉の言い回しに留意して欲しいのですが、私には神的なものの実存を疑うことが出来ません!
それは、私の実存を疑うことが出来ないことと等しいことなのです。
実体は何か分からないが、どうして思い、為そうとする私を超えて、その超えた方に惹きつけてやまないものを感じてしまうのか?...そうなることで私はより私自身になってゆく...
そして、そこには愛、平安、リアリティがある!
これは、物心付いてからの私の人生で、確かに長い間失われていたものに違いありません。
そう、確かにそれは失われたものという感覚なのです。
ということは、それは記憶の定かでない過去には感じられていた、ということなのでしょう?
いや、私の中のどこかに何かで覆われて隠れていたもの、と言った方が正確なのかもしれません。
だから、何にも無くなってしまって、ゼロからそれを見つけよう、得よう、又はそれが得られる境地に達しようとすることは、ほとんど不可能なことに思えます。
これは、想像ですが、有史以前、所謂神世の時代というものはあったと私は思っています。
そこでは神と人は一体であった...しかし、文字が生まれて神話という形でそうしたことを伝えておりますが、どうも既にその頃には神人の分離が始まっていたように感じてなりません。
恐れるもの、支配するもの、神々は我々の対象として描かれているばかりではありませんか?
祖先たる我々が居て、その上に君臨する神...神世の時代というのは、おそらく、この主客は逆だったのでしょう。
神は主である!...神があって人がある、神にあって!...
神にあるから、神人は一つのものなのではないか?
人間が主になる時、分離が始まる...神は隠れたもうた!
そして、見えない、感じられない神に人間に超然として、支配するものを投影した!
愛、平安を失った我々の奴隷的精神を!...
それは、禁断の果実を食したことで、神の逆鱗に触れたことによるのでしょうか?
いやいや、そんなものは、今の今感じていることの説明のつかないことなのですよ!
”私はここに在る...お前はどこに居る?、私からもう離れないで欲しい!”
神世の昔、一体神と人の間に何が起きたのかは分かりません。
ただ、人間の一人歩きが始まったのは確かなことでしょう。
ただ、失われたものはあまりにも大きかった!
それにより、人間のすべてを失うことにもなりかねないではないか!
愛、安らぎ...あなたはそれは元々無いもののように感じていますか?
それとも、それは失われたものなのでしょうか?
失われたものは回復出来る!...否それは自然に回復されるものでしょう。
あなたの主に、否主ご自身を望めばいいのです。
あなたがそれを望みさえすれば!
失われたものはあまりにも大きすぎる!
愛、平安そして神そのものの回復...すべての生においてこれほど大きいものなどあるだろうか?!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男なんかに生まれて...

2023-09-17 09:36:55 | 雑感
誰でもそうなんでしょうが、私の性格は男っぽいところと女性(女っぽいとは言わない)っぽいところがあります。
私はね、言いたいこと言わないで、ウジウジしてるの大キライです。しかし自分から積極的にそういう風にすることはあまりありません。だってそうすることで職場などで得てして、角がたって、平和な雰囲気を壊すことになりかねないでしょう。
そこへ、高圧的な態度で横から言いがかりなど突きつけられでもしたら...もう黙っちゃいません!
”てめえ、何だ、黙ってろ!”...もう、こう一端火が付くとどうにもなりません!...職場は修羅場と化してしまいます。これ、最近実際にあったことで、私は、見かけによらず血の気が多い、直情型の人間なんでして、人生修行など全く至らない上に、トシのせいか、こらえ性が無くなってきたようで、ますます火が付きやすい状態になってるようです。
何が許せないって、平和を乱されることなんですよ!...そう、これらに反して私は平和主義者なんです。言い訳ですが、ケンカしたくてしてる訳じゃないですよ!
平和に、心穏やかに、愛にあって暮らしたくないですか?...あのオッサンに言ったって無理でしょうが!...
そうそう、もっと許せないのは、短気な人間の特色でもある、沈静化も又早く、すぐに元の平和状態に持って行こうとしているにも拘わらず、それを蒸し返して、いつまでもグダグダ言っていたりするので...”コノヤロー!”...
ああ、つくづく男ってーのは本当に低級な、クダラナイ生き物だと思いますよ!...やれ、メンツだ、プライドだのって、紙切れみたいなものに囚われ続けて!...
”それが人生で一番大事なものなんか?...”
男の世界は火を見ずにおれない...常に炎上している...この世界を火の海にせずにおれないのです!
この世界に男しか居なかったら、とっくにそうなっていることでしょう。
”支配欲、権勢欲から自由になれないヤローども、お前たちには宗教やスピなどとは永久に縁が無いのだ!...そしていつの時代にもそれらはお前たちが関わることでワヤになってしまうのだ!...”ああ、何で毎日ヒゲそらなきゃならないのだろう!、めんどくせえ!...しかし、そらなきゃ我々は野獣ではないか!...このケモノ性から自由にならない限り人類の進化などあり得ないのだ!
男には、神の愛など分からない!、彼らは、支配する、怒れる神しか分からないのだ!
神の愛が分からないということは、神人が分離したということ、神が我々のハートから消え去ったことを意味しているのではないか!
それでも、この世が炎上しても、私は愛と平安を求め、それに落ち着くしかないのだ!
私は低級な生き物だけど、それを感じることが出来る、否そういう感覚を与えられている...”
”さっきは声を荒げてしまって悪かったな!”...休み時間に謝っときました。ずっと心にわだかまりを抱えたままで、気持ち言い訳ないでしょう?...収集が付かない時はこっちが謝るしかありません。
これは綺麗ごとじゃないですよ!...それでも私は落ち着きたい、取り戻したいのです!
母と子の関係、永遠の女性性に見る、あの無条件の愛を!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の驚くべきこと

2023-09-16 09:27:25 | 求道、探究
私はね、精神的な道を歩み始めて僅か一年半くらいで、驚くべき神的現臨に与ることが出来たのですよ!...これはもう一種の宗教的天才と言っていいかもしれません。
人は幸福にならんがために信仰なり修行なりに赴くものでしょう。
しかし、そういう思いを超えて幸福に与っちゃったらどうするのか?
それは修行の賜物なのか?...そんな努力したこたないねえ...道を求めて1年半で探求の終わり?...ああ、何とつまらん人生だことよ!!

しっかし、それがあーた、又一年半ですっかり消えてしまったではありませんか!...これは別の意味で驚きですよ!...それが無くなったら元より何の取り柄もない私のこと、普通以下、いやサイテーの人間に成り下がるしかありません。
まあ、こう書いてみると、何でそれが消えてしまったか、分かる人には分かるでしょう?
しかし、あの驚くべき、神に捉えられて人生の裏側に足を踏み入れたのは、その消えていた期間でのことなのでした。これこそは本当に魂から望んていたことだったのです。幸福と確信に満ちた私の人生は約束されたも同然ではないか?
しかし...それも数日後元の黙阿弥となり、あろうことかその約一年後、生来の私の持病とも言える、思考のがんじがらめ、ノイローゼ状態の地獄の日々を送ることになろうとは!...これは驚きだ!、何でそーなるの?...なるべくしてなったのです。私はこのように、人一倍自我心の強い人間だったからでしょう。
今では考えられんことです。今はね、思いに囚われそうになったら、自然と神的なものに向けられ、パッと離れることが出来ます。ま、自我心を克服したってことでしょう。
約二十五年くらい前から現臨感も定着するようになり、ブログを始めてからよりそれが深まり今日に至っている次第です。
な~んて!...騙されちゃなりません!...これは自我心というものがどういうものかを示しているんですよ!...それを克服した、無きものにしたと、又自分をどうこうして得た、到達した、と思いたがるものなんです!
そのものが定着したのは、正に自分をどうこうしようとか、あの至福をもう一度、との思いを諦めたことに拠るのです。これは又何とも逆説的で驚くべきことです。
自我を克服する、欲望、思考を無くして空になる...これすべて出来もしないことばかりではありませんか!...誰がそんなこと考え続けているのか?
私の精神的な道、否人生は自我を克服するとか、空になるとかのためにあるんじゃありません。
愛、平安に与らんがため?...それがたとえ自我心からだろうと、それはそうでしょう。それを求めない人間など居るだろうか?...
しかしそれが自我心と結びつくとすれば、それだけがあるものと切り離されてしまう時でしょう。
そうです!…それは神的なものにあって、その当体、源泉にあってのものなのです。
そのものあっての私、私の人生なのです!...本当に伝えたいことはこれに尽きます!
自我が強かろうが、弱かろうがほっといたらいいのです。
この世に生きている限りそれが無くなる訳がないのですから...
それにしても、今も尚ガンバリ続けているこの終生治らないであろう、我心の強い人間が何でこんなことになってしまったのか?...それが一番の驚きでなくて何であろうか?!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現臨感の本質

2023-09-14 09:30:53 | 現臨、ハタラキ
私に初めて現臨感が芽生えたのは、何度も書いているように、昭和54年の初頭の頃だったのですが、最初はなんて言うか、神がかり、霊がかりのような感じだったのです。
私の人生で霊感的になっていたという自覚があったのは、この時期だけだったと言っていいでしょう。
といって、何かが見えるとか聞こえるとか人の心が分かるといった、所謂超能力とは違うもので、本当に霊的なエネルギーみたいなものを決まって受けるという状態だったのです。どうしてそうなるかというと、意識が向いてしまうからです。(自分の意志からではない!)
具体的な感覚としては、耳の下からホッペタ、後頭部の辺りが何か膨張して来るというものです。
それと共に思考能力が後退してゆき、時には意識さえも飛んでしまうのではないかと感じたほどでした。私にハッキリ思考とは別に意識の領域というものがあることが分かったのはこの時が最初です。
これは現臨感の萌芽的な状態とは言え、今日そう呼んでいるものとはとても言えないのは言うまでもありません。だっていつ精神錯乱の危機に見舞われるか分からない状態だったのですよ!
こういう有様ということは、愛、平安というものも感じられないのです。
それは又、自己自身の中心となるもの、”私は在る”という感覚、実存感覚も感じられなかったということです。実に愛、平安、リアリティというものは、実存と共にある、とそう言っているのですよ!
もっとも、その危機的状況は、約一月で治まりました。その間、霊の声なきお告げ?で、”大丈夫だ、私はここに在る、アブナイ感じはじきに治まる、それと共に何か喜ばしきものの訪れを感じて来るだろう...”という導きも受けていたのです。
神的な現臨の訪れは、正に実存に目覚めることと一つのことだったのです!
その春、桜の咲く頃、小池辰雄先生のことを知ったのも象徴的なことでした。
”無的実存、霊的実存”...何のこっちゃ分かりませんでしたが、僅かにカミュの”異邦人”を読んだことがあるくらいだった私が始めて実存というものに接したのです。
考えている自分が何かを思い描いたりするのでなく、私自身が、私の魂が揺さぶられること、これが実存の開示でなくてなんであろう!
こうした霊的現臨、現存について、本質的に言えることは、見てきたように表現することが出来ない、ということです。
この頃、ある霊能者が、自分が肉体から抜け出して、外の世界のことや、霊界らしき世界を経めぐっていたなどのことを、さも見てきたように語っていたのを聞いたことがありましたが、そこに何もリアリティというものが感じられなかったのです。
ということはその時分、私は本当にリアルなものを感じていたということです。
それは、見ている私が居て、景色を見ているように描写出来る何ものもありません。
見ている対象もなく、私は霊的現存と一枚になっているのです。
神的現臨、自我ならぬ霊的実存なる我しかない!
その時には、神がかりの兆候はすっかりなりを潜めてしまったのは言うまでもありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする