スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

アドマイヤドン&第一部定理三一

2012-10-13 18:43:04 | 名馬
 10日の埼玉新聞栄冠賞を勝ったのはトーセンアレスで,この馬はアドマイヤドンの産駒でした。
 母はベガ,祖母がアンティックヴァリュー。半兄にアドマイヤベガと2000年のセントライト記念を勝ったアドマイヤボスがいる良血。
                         
 2歳10月にデビュー戦の新馬を勝つと11月のオープンを連勝。さらに翌月の朝日杯フューチュリティステークスも勝ってJRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されました。
 翌年はトライアルのオープン3着を叩き台に皐月賞へ。しかしこれはノーリーズンの7着。続くダービーはタニノギムレットの6着でした。休養を挟んで夏の札幌記念は4着。秋の菊花賞は4着。ここからダートに路線変更。この年は盛岡で行われたJBCクラシックに出走し,大レース2勝目。続くジャパンカップダートはイーグルカフェの3着でした。このまま年を越し,翌年のフェブラリーステークスへ。ここはゴールドアリュールの11着と,初の大敗を喫しています。
                         
 ここで休養。主戦が藤田伸二騎手から安藤勝己騎手へとスイッチ。復帰戦となったのは9月のエルムステークスで,実に9馬身差で圧勝。続く南部杯で大レース3勝目をあげると大井でのJBCクラシックも勝ちました。ジャパンカップダートも勝ったと思ったのですが,これは写真判定でアメリカ馬の2着。この年はJRA賞の最優秀ダート馬とNARグランプリの特別表彰馬に選出されました。
 翌年はフェブラリーステークスで大レース5勝目をあげてドバイワールドカップへ。しかしこれは8着。帰国して6月の帝王賞へ。これは接戦でしたがきわどく競り勝ち大レース6勝目。次の南部杯は武豊騎手で2着でした。再び安藤騎手に戻りこの年も大井開催となったJBCクラシックに参戦すると三連覇。しかしジャパンカップダートは同厩舎の馬の2着。暮れに有馬記念を使いましたがこれはゼンノロブロイの7着。この年もJRA賞では最優秀ダート馬に選出されています。
 これで引退でもよかったと思うのですが,翌年も現役続行。しかし3戦して勝ち星は上げられず,引退となりました。
 種牡馬としてはまだ重賞の勝ち馬は出ていません。トーセンアレスが現時点での出世頭で,この馬によって産駒の重賞制覇が達成される可能性もあるでしょう。

 神Deusの無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusというのが神の思惟する絶対的な力potentiaではないということは,第一部定理三一で示されていることでもあります。
 「現実的知性は,有限なものであろうと無限なものであろうと,意志・欲望・愛などと同様に,能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ」。
 能産的自然というのはNatura naturansというラテン語で,所産的自然はNatura naturantaというラテン語です。スコラ哲学では前者は創造するものとしての神を意味し,後者は創造されるものとしての自然という意味であったようで,スピノザもここではその意味に準じてこのことばを用いていると考えてよいでしょう。したがってスピノザの哲学では能産的自然というのは,実在的な意味においては神と神の本性essentiaを構成する無限に多くのinfinita属性attributumのことを意味し,所産的自然というのはそれら無限に多くの属性から生じる無限に多くの様態modusであるということになります。これは第一部公理一の実在的意味と一致しています。
 したがって,スコラ哲学における所産的自然ということばの意味からしても,またスピノザがこの定理Propositioにおいてそれを意志voluntasや欲望cupiditasや愛amorなどと等置しているということから考えても,知性すなわち個々の観念ideaの総体が絶対的思惟ではなく思惟の様態cogitandi modiと考えていたと理解して間違いないということになります。そしてそれはその知性が無限であっても有限finitumであっても同様であるといわれているのですから,神の無限知性といえどもそれは思惟の様態であるということになるでしょう。そもそもスピノザによるこの定理の証明Demonstratioは,知性というものは絶対的な思惟ではないということを自明の事柄としたうえで,よってそれは所産的自然でなければならないということを導くような論証となっていますから,とくにこの定理を持ち出すまでもなく,神の無限知性が思惟の様態であるということは,少なくともスピノザ自身の中では,ごく当然の事柄であったと理解できます。
 なお,ここでいわれている現実的知性は可能的知性の対語という哲学的意味がありますが,スピノザの哲学においては知性は必ず現実的知性ですので,この点は現在の考察の上では考える必要はありません。
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